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Taku's World

2023/09/04

久しぶり 沼津市 市制100周年に寄せて

今年(2023年)、沼津市は市制百周年。市民憲章50周年の年でもある。22歳で教育界に身を置いて50年。感慨文を2本。やや過激に。

〇気がつけば半世紀 社会衰退の前兆           

 退職して12年経った。現職38年と併せれば50年。何と教育界に身を置き半世紀が経ったのだった。大学の卒業記念で後輩から贈られたのは鉄筆セット。今や、それって何?だ。PCで原稿を作成。印刷はリソグラフ。平成1桁年にB版はA版になって、今や非紙媒体へむかっている。黒電話、ダイヤル電話はスマホやメールに。本市50年、丸井も西武もニチイも消えて、ヨーカードも去った。閑散駅前通りに仲見世通り。うじゃうじゃ、わいわいが消えて、がらがら、すきすきに。
 教育界では、本県の採用倍率は10数倍時代から3倍以下、教科によっては2倍以下だ。学校の小規模校化に加えて教員不足が深刻。教職課程を開講できない大学もあると聞く。教員のなり手がいない。超のつく時間外勤務は50年前にだってあった。何が違うか。私の初任時は私のような未熟な教員を保護者達は側に立って大切にし、育ててくれた。が、今や保護者、地域のクレームに備えてピリピリだ。教員の、いや学校教育そのものの社会的地位は低下。塾や私学が跋扈するが、それは受験と部活。教員への敬いなどは鉄筆の今昔と同じ。学校教育は20年後・30年後の社会作りで、その社会の担い手を計画的に育んでいるのであって、受験成果が使命ではない。だから、学校教育の軽視や学校の教育力(授業力)の低下は社会(国)衰退への道となり前兆とも言える。  
 現職教員には難しい時代になった。正解探しの授業、教える、伝える技術や統率力よりともに学びあう授業づくりが希求され、授業改善が求められている。が、それが難しい。慶応高校の監督のように指導者と選手とのよき距離間を創るのも難しい。余程に研鑽せねば無理なこと。主体的な学びとは言うが、子供がその気にならなければ学びは成立しない。これまた難しい。教師は指導者から伴走者へとも。これ、またまた、だ。教師自身がよき学び手でなければ、それはイメージできずに途方にくれるだけ。うーん、10年後、危ないなこの国。

〇気がつけば半世紀 昭和は通用せず
 新卒でK中に着任して50年。半世紀が経った。私が中学2年の時に東京五輪で新幹線が開通。この年の高校進学率は67.7%で1/3は中卒だった。我が家も極貧で高校進学がやっと。大学進学のダの字もなかった。当たり前だが、大学へ進まなければ教員にはなれない。不思議にも、高校の先生方や沼津市のおかげで大学進学への道が開かれて教員になれたが、暫くして、職員室の先生方は全員が大卒。自分もその一人と気づいて驚いた(笑)。あれから50年。社会激変の様はすさまじい。今年、自治会役員に就いたが、正副会長は全員がほぼ60代後半を超えて70代が主役。昭和の申し子のような人たち(私も含む)だ。上り坂を皆で上って、高度経済成長を謳歌したが、1970年(平成2年)からの失われた30年を演じた社会の中堅層でもあった。上が下をグリップし、異論や異議は認めず、忖度させて全員一致。が、今や真逆。統一・均質より独創性や創造性を重視。皆違っていい、だ。社員旅行が消えて、社内運動会もなくなった。出社せずのテレワークも珍しくない。社会の変化は生活の隅々に素早く派生して、各個にその適応を求めてくる。だが、皆同じ世代は、それらへの適応を拒否。財界幹部は嘆く。日本人には分からないことはやらない文化があると。確かにだ。変化を受け入れず、分からないデジタル文化等は忌避して、「不易流行」と宣う。不易流行の本意を間違えているが。
 60歳で皆一斉に退職。能力があろうが、なかろうが皆平等に定年退職するから不平はない。これがidiot。中韓は有能な我が国の退職者を高額で雇用して利用して自国の産業経済に活かしてきた。結果は知るべしで、頭の中がぐらぐらしてくる。
 今、多くの組織で中間組織が綻びかけている。問題や課題を内包するリアリティは末端にある。昭和手法のままに末端からは離れた中間組織が、上から目線で協力要請しても、末端はうるせーなあだ。それが具体に現れたのが、松山、高知両市P連の県P連からの脱退だ。
 自治会も違わずで、昭和世代が役員を占めて、昭和のままを演じ、住民の不協力を嘆く。上から下へではなく、下から上へで、住民自らの参画が重要な時代になっているが、その時代認識に立てない。だから、反対や異論、異議を嫌う。下からの声こそ重要なのだが。行政もよろしくない。自治会は自治の会であって、役所の出先ではない。ここにも昭和の残滓、上から下への意識が働いている。その上から下への伝達手段が回覧板で、そもそも、回覧板は昭和15年、内務省発のものだ。それが今なお続いて、HPやネット活用に至らない。まだ、時期尚早で全員が使えないと昭和世代は言うが、全員ではない。昭和謳歌時代の人たちだけだ。で、回覧板という昭和初期が今なお続いて悠久不変。不思議な世界である。

○子供たちの65%は将来、今は存在していない職業に就く (キャシー・デビッドソン・ニューヨーク市立大学大学院センター教授)
○今後、10年~20年程度で、半数近くの仕事が自動化される可能性が高い。(マイケル・オズボーン氏 オックスフォード大学准教授)

2023/01/04

今年の正月 癸卯

令和5年が始まった。今年は卯年で年男。高田郁は「みをつくして料理帖」に中で、小松原に「卯年は金に縁がない」と言わしめている。然り。金に縁がなく還暦から12年。速かった。あっという間の12年だった。顧みればぴょんぴょんと兎のように跳ねていた人世だった。この12年も同じだった。西鶴は辞世の句に「浮世の月見過ごしにけり末二年」と詠んだ。前書きに「人間五十年の研まり、それさへ我にはあまりたるに、ましてや」とある。人世五十年、楽しい現世を二年も余分に生きちゃったくらいのいい。儲けちゃった二年ということか。私は、末二十二年。余計にどころではない。人世五十年時代に比したら、半分近い。どう生きてきたのか。死ぬまで生きるというのは故石原慎太郎。亡くなる直前まで小説を書いていた。死ぬまで生きたのである。死なないことと生きていることとは違うんですよね、とは玉川徹。これも然り。故日野原重明先生は、90歳で教壇に立ち、医療の現場に死ぬまで立ち続けておられた。感服するし、憧憬する。
 年男・年女になることは1つの区切り。そう思って年末にはお伊勢参り。お願い事ではない。来し方を感謝してきた。伊勢飾りも求めた。伊勢地方では、お飾りは年中飾ったまま。ど真ん中の木札に「蘇民将来子孫家門」とある。蘇民とは貧しい民のこと。牛頭天王に頼まれ親しく優しく応じた蘇民は将来幸せに暮らしたという伝説に基づく。その蘇民がお守りにしていたのが「蘇民将来」詳しくはこちらを。この木札にある文字、将と門、それを併せると将門になってしまう。それで「笑門」としたと土地の人は語る。笑う門に福来たるだ。ついでながら神棚や神社の注連縄は、向かって右が太い。だが、この伊勢飾りは左が太い。これも地方とは違う。この伊勢飾りに伊勢宇治飾りを求めてきた。伊勢でもだんだん継承されなくなってきた、この宇治飾りは、雄松・雌松からなる門柱飾り。神がかった訳ではない。年男・年女を気に、この伝説がごとく生き方を見つめたのだった。笑門だ。
 除夜の鐘が鳴った。地元の浅間神社にお参り。ここでも感謝。そして、菩提寺のお墓に新年のお参り。ここでも感謝。帰って、一寝入り。6時に起きて浮島ヶ原の初日の出と湧水の初飲みに出かけた。そうして帰って、仏壇に純米酒を捧げ、私もまたお屠蘇を口にした。それから三嶋大社へ。これまたおかげ参り。
 3日には、池上七福神巡り。池上本門寺は日蓮宗、我が家と同じ。池上本門寺で招福の白札、魔払いの黒札を求めて帰ってきた。これで、正月の行事は終わり。よきことは、神仏が招くのではなく蘇民将来よろしく己次第。心がけて生きよう。

2022/05/04

みをつくし料理帖の舞台

 4月に入って高田郁の「みをつくし料理帖」。読み進めていくうちに作家高田郁の舞台設定に舌を巻いた。江戸の区割りを周到に再現している。
舞台の殆どは移転した俎橋付近のつる屋。九段坂に面していて、俎橋は飯田川にかかっていた。俎橋の対岸に創業文久元年の大丸屋米店があるとネット氏は報じている。俎橋向こうには靖国通りが走っているが、江戸期は武家屋敷でそんな通りはない。その先を右折すると神保小路に出る。それが現在の神田神保町さくら通り、すずらん通り。突き当たりが神田小川町の靖国通り。緩いカーブを当時のままに行くと土屋采女屋敷前に到る。現在の東京メトロ小川町駅、淡路駅辺りだ。往時はその隣が松平左衛門屋敷前。そこを北上。すると昌平橋手前で中山道にぶつかる。中山道は日本橋を基点に日本橋宝町、現三越(越後屋)、十軒店、今川橋を経て、この地に到り、上野広小路に進む。神田明神脇を抜けていくような道筋だ。
 昌平橋を渡る。そこは明神下。ご存知野村胡堂の銭形平次が住み、縄張りにしていた地とされているところである。この明神下通りは現在国道452号線、昌平橋通りと呼ばれている。この道の右手、現在の神田明神下交差点から上野方面に旅籠町2丁目、1丁目と続き、その先が金澤町で、その向こうは大岡備後守屋敷。澪や芳、おりょうに伊佐三、口がきけない太一らが住んだ長屋はこの金澤町にあった。金澤町とは前田藩ゆかりの地名である。現在の外神田三丁目の千代田区立外神田住宅(外神田3-5)地辺りで昌平小学校前だ。源斉先生の屋敷は昌平橋に近い旅籠町にあった。金澤町と神田明神下(昌平橋通り)を挟んで御臺所町、同胞町と続く。種市がそばを打っていた「旧つる屋」は御臺所町にあった。澪達の長屋と目と鼻の先である。外神田2丁目、外神田2-5あたりか。現在、近くにうなぎの明神下神田店がある。面白い。澪が手入れし、油揚持参でお参りしていた神弧のある化け物稲荷は古地図にもある。城下町の造りよろしく、明神下を嬬恋坂、鍵の手をさらに北上。武家屋敷にぶつかる。松平伊織屋敷で、そこは湯島天満宮下。その直前、松平采女屋敷と道路を挟んだところが化け物稲荷だった。澪達の長屋からそんなに近くはない。移転する九段坂下のつる屋からは遠くなる。余談ながら、つる屋を卑怯な手でいじめる登龍楼の主人は采女宋馬。この近辺に「采女」屋敷が多い。
 そばの「旧つる屋」は付け火にあって、俎橋、九段坂下に移転した。移転したつる屋まで歩くと30分以上はかかったであろう。通勤が遠くなったのである。
 みをつくして料理帖についてはこちらを。

2022/01/16

本市の津波被害

深夜午前1時同報無線とスマホに起こされた。津波警戒警報の知らせである。早速にスマホで情報収集。本県では、御前崎、焼津、清水、本市内浦、石廊崎、下田が取り上げられていた。ううん?我が居住地は駿河湾のど真ん中。あって当然がない。なぜ??である。しかも、我が町は堤防が一番高く、次第に浮島沼へと標高が下がっていく。堤防を乗り越えられたらもうだめである。御前崎、石廊崎、下田は分かる。太平洋に直面しているからである。駿河湾に侵入した津波は焼津、清水に達し、その後はどうやら東進し、内浦湾に達する。つまりは、海岸に沿って横走りするらしい。これは素人の俄勉強で推測。裏付けるように我が町には高潮、高波、それに潮風の被害はあっても、津波の被害はかつてないようである。仄聞ながら、急深かな海岸であることが一つ、それに東に津波は進むからと聞いたことがあった。だから、内浦湾に近いほど想定被害は大きい。ハザードマップにも原、片浜は載っていない。内浦があれば、当然、西浦、静浦地区も同じであろう。ハザードマップは、第三校区、第四校区も記載する。大きな地震・津波の場合、内浦に進行を遮られた波が、狩野川を逆流すると理解している。市役所は御幸町。狩野川の堤防を越えられたら、市役所は機能不全。困った。ついでながら、我が町の懸念は元の浮島沼(たんぼ)を造成した新興地に液状化現象による被害が甚大となることでしょう。追 元吉原は、高潮、高波の被害(津波ではない)で、宿場を移して左富士の中吉原へ、そこからさらに現在の吉原本町へ。それが五三次吉原宿。旧東海道は吉原宿から南下していく。元は元吉原からどういうルートを描いたのでしょうか?

2021/01/27

高齢者と老人は異なる

 いよいよ今月卯月の半ばには満の古稀を迎える。数え年ではもう既にである。
「酒 債 尋 常 行 處 有 人 生 七 十 古 來 稀 酒 債 尋 常 行 處 有」(曲江 杜甫)
人生70年古来稀だというが、今やうじゃうじゃ。人生80年の時代、たかが70歳だ。だが、古稀を迎える私より遙かに若かった人がいたし、いる。地下鉄サリンで一躍世界に名を馳せた聖路加病院の故日野原重明氏。サリン事件のこの時、83歳で陣頭指揮を執り630名の治療にあたった。3年前の80歳の時に、大災害に備えて廊下、待合室の壁面に酸素配管2000本を設置していたそうだ。2017年満105歳で世を去られたが、96歳でなお教壇に立っていた。諏訪中央病院鎌田實先生。1948年生まれというから私より3つ上。チェリノブイリ、イラク、東北の支援を今なお続けている。「幸せだから笑うのではない。笑うから幸せなのだ」このことばにぐっときた。励ましの名人だ。何と言っても加山雄三。1937年4月生まれと言うから満83歳か。それでも若大将と呼ばれる。うらやましい限りだ。歌と海をこよなく愛す。タレント業のほか、音楽家としてギタリスト・ピアニスト・ウクレレ奏者、画家でもある。
 高齢者即ち老人ではない、と思い切って私は見栄を張る。北城恪太郞さんではないが、(あ)明るく、(た)楽しく、(ま)前向きに生きることができる人は美しく若々しい。そしてプロであり続けている。人はみな何かのプロだ。プロはその人しかできない何かができる。日野原さんも、鎌田さんも、加山雄三もできる何かをもって、明日を夢見てなお向上心を忘れず、それぞれの社会で人々に勇気と希望を与え、光を放っている。その活力、エネルギー。若い!いくら年齢重ねたって若くはいられるのだ。その逆を言えば、その心の持ちようを失った人が老人なのである。

2020/12/10

12月になっても雪がない富士山

変である。12月に入っても富士山に雪がない。うっすらと冠雪したかと思えばすぐに消えて青々とした富士に戻ってしまう。雪がないということは富士山の大気が温かいのかと思ったら、本日は-11.5度とか。同じようなことは2012年にもあった。2012年1月、今年の富士山には雪がないと言われていたら、同年1月28日、富士五湖直下震源とするM5.4、震度5弱の地震が発生した。2011.3.11は東日本大地震。さて、富士山地震、噴火などにいたらなければいいが。杞憂であってほしいものだ。富士山に積雪がないのは地熱があるからなんていうことはないだろうな。大体、安政大地震、黒船来航、安政の大獄、コロナ蔓延、インフルエンザ流行と続き、幕府は瓦解していった。世情不安や疫病流行と富士山噴火はセットになっているように感じる。大Oedm8299 丈夫だろうな。

2019/12/04

大嘗宮を見て

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もう二度とない。今生の見納めと、平日、込み合う小田急、千代田線と乗り継いで皇居へ。セキュリティチェックを受けて坂下門から宮内庁前、乾通を進み、案内に従って西詰橋を渡ったら???である。そこは江戸城本丸跡だった。明暦の大火の後、天守閣を再建しようと前田藩が築いた天守台をいただき、松の廊下跡もある。江戸幕府の心臓部だった場所である。ここは、東御苑、二の丸庭園から梅見坂や汐見坂を上がっていけば誰でも行ける場所で、私も数回訪れたことがあった。ここに!である。大嘗宮は、平安京遷都がなされて以来、朝堂院(内裏の正庁)の前庭に造営されて、大嘗祭自体が中断される時代があったものの、おおよそ大極殿の前庭に造営されるのが常だった。明治になって初めて現皇居内の吹上御所に造営されたが、それは明治の新政と無縁ではあるまい。大正、昭和天皇の時は京都御所内旧仙洞御所前庭。平成天皇は皇居内東御苑。そして今回同じ東御苑内。この場所への造営は初めてではなかったが、実際目の前にしてみると歴史を感じてならない。国破れて山河あり。城春にして…である。徳川幕府が権勢を誇った場所で、天皇代替わりの儀式である大嘗祭が行われている。徳川家の末裔の中には公団に生活している方もいると聞くし、かつての私の部下にも紀州徳川家の末裔がいた。もちろん大名生活をしているわけではない。風貌は家康に似ていたが生活は庶民だった。
 令和の大嘗宮は清水建設が9億円で工事を落札したという。秋篠宮殿下の御発言もあった。24億円の費用がかかったといわれるが、9億円を除いた15億円はどうしたのだろうと思った。今までは大嘗祭催行後は大嘗宮は破却、奉焼されてきたが、今回の資材は再利用されるという。陛下らしい。
 厳重なチャックを受けて皇居内に伺ったが無料。祝賀パレードに使用したセンチュリーのオープンカーも見られるというが見当たらない。案内所で聞いたら、四谷の赤坂迎賓館だという。初めて迎賓館内に。ここの管轄も宮内庁かと思ったら、こちらは内閣府。入館料1500円とあった。内閣府になるとどうもお金が付きまとう。桜を見る会の新宿御苑は無料だったと思うが。前庭のみは300円。長蛇の列でセキュリティチェックも空港内の保安検査と同じ機材が導入されている。リュックに背負っていた三脚は預かり処分。もち込めないという。くだんのセンチュリーはガラスケースに納められていた。菊の御紋章はついておらず、皇1なるナンバーは品川ナンバーに変わっていた。この車は内閣府の管理下になったという。
 見たかった高御座は東京では12月22~25日に2020年1月2~19日に国立博物館で無料で見られるらしい(京都では20年3月1~22日 )

 

2018/03/18

座席指定大失敗

ANA809便。Cクラスで5kを指定。富士山が見られるとの判断だったが、何とこの席は座席の横は窓が前の方に一つだけの特別席。加えて富士山付近では眠りの中に。とほほ、でした。座席指定で4を避けただけだったが。

2016/02/28

私の顔は?私が私でなくなる瀬戸際

羽田からバンコクへ。入国審査。女性審査官の後に並んでいたら、男性審査官が戻り、隣の列に移るよう指示され、審査官の前に。しかし、許可が下りない。審査官は何度も何度もパスポートを見直している。そして、もう一度、そこを見ろという指示。見れば、そこには小さなカメラがある。彼はそのカメラが捉えた私の顔とパスポート写真を比べているのだろう。それで許可が下りない。パスポート写真は5年前、2011年8月のもの。さらに審査官の「審査」が続く。この人物は、このパスポート写真の男と同一人物か、と疑っているのだろう。私?何者?私が私でなくなる瀬戸際だった。これで別室に案内されたら、尋ねてみようと覚悟した。「私は何者でしょう」と。私の顔は彼にとって実弾や薬と同じレベルということだ。果たして…。10分程して、ようやく許可が下り、微笑みの国?タイランドへ入国。この5年間、審査官が疑うほどに顔かたちは変化していたのだろうか?

2015/02/07

大失態。でも誰もがやりそう。小田急さん。

新宿発16時50分の「さがみ」に飛び乗ったつもりであった。予約した9号車12番A席の前に行ったら、ABとも乗客が座っている。??B席の客が切符を見せてくれた。間違いない。??確かめに降りようとしたらドアが閉まるではないか!!。??それは16時40分発のEXEで、16時50分発ではなかった。どうしたものか。車掌に告げたら町田で下車して、普通電車に乗り換えて、次の相模大野で予約した列車に乗れという。果たして、町田でほとんどが下車。車両はガラガラ。私の予約を確認さえすれば、そのままでも何にも影響はなし。車掌は見事なまでにマニュアルに忠実だった。それに、「迷惑な客だ」という気持ちが、発する言葉のはしはしから伝わってくる。まるで、罪人を見るような目つきだ。そうです。そうです。私が慌て者で悪いんです。それでも、私は町田で降りて片瀬江ノ島行きの普通に乗り換えたが、案内がなかったので、片瀬江ノ島行きのこの電車で相模大野に行けるのかどうか不安だった。私が確かに予約購入していることを確かめれば、そのまま空いている席にどうぞでよかったのではないか?やはり駄目ですかね。ちなみに相模大野で乗り換えた次のEXEの9号車も乗客は私ともう一人。前の電車と同じだった。さて、新宿では16時40分と50分。間は10分。車両は同じEXE。よほどアナウンスしないと間違えますよ。小田急さん。

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