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Taku's World

2022/05/04

みをつくし料理帖の舞台

 4月に入って高田郁の「みをつくし料理帖」。読み進めていくうちに作家高田郁の舞台設定に舌を巻いた。江戸の区割りを周到に再現している。
舞台の殆どは移転した俎橋付近のつる屋。九段坂に面していて、俎橋は飯田川にかかっていた。俎橋の対岸に創業文久元年の大丸屋米店があるとネット氏は報じている。俎橋向こうには靖国通りが走っているが、江戸期は武家屋敷でそんな通りはない。その先を右折すると神保小路に出る。それが現在の神田神保町さくら通り、すずらん通り。突き当たりが神田小川町の靖国通り。緩いカーブを当時のままに行くと土屋采女屋敷前に到る。現在の東京メトロ小川町駅、淡路駅辺りだ。往時はその隣が松平左衛門屋敷前。そこを北上。すると昌平橋手前で中山道にぶつかる。中山道は日本橋を基点に日本橋宝町、現三越(越後屋)、十軒店、今川橋を経て、この地に到り、上野広小路に進む。神田明神脇を抜けていくような道筋だ。
 昌平橋を渡る。そこは明神下。ご存知野村胡堂の銭形平次が住み、縄張りにしていた地とされているところである。この明神下通りは現在国道452号線、昌平橋通りと呼ばれている。この道の右手、現在の神田明神下交差点から上野方面に旅籠町2丁目、1丁目と続き、その先が金澤町で、その向こうは大岡備後守屋敷。澪や芳、おりょうに伊佐三、口がきけない太一らが住んだ長屋はこの金澤町にあった。金澤町とは前田藩ゆかりの地名である。現在の外神田三丁目の千代田区立外神田住宅(外神田3-5)地辺りで昌平小学校前だ。源斉先生の屋敷は昌平橋に近い旅籠町にあった。金澤町と神田明神下(昌平橋通り)を挟んで御臺所町、同胞町と続く。種市がそばを打っていた「旧つる屋」は御臺所町にあった。澪達の長屋と目と鼻の先である。外神田2丁目、外神田2-5あたりか。現在、近くにうなぎの明神下神田店がある。面白い。澪が手入れし、油揚持参でお参りしていた神弧のある化け物稲荷は古地図にもある。城下町の造りよろしく、明神下を嬬恋坂、鍵の手をさらに北上。武家屋敷にぶつかる。松平伊織屋敷で、そこは湯島天満宮下。その直前、松平采女屋敷と道路を挟んだところが化け物稲荷だった。澪達の長屋からそんなに近くはない。移転する九段坂下のつる屋からは遠くなる。余談ながら、つる屋を卑怯な手でいじめる登龍楼の主人は采女宋馬。この近辺に「采女」屋敷が多い。
 そばの「旧つる屋」は付け火にあって、俎橋、九段坂下に移転した。移転したつる屋まで歩くと30分以上はかかったであろう。通勤が遠くなったのである。
 みをつくして料理帖についてはこちらを。

2022/01/16

本市の津波被害

深夜午前1時同報無線とスマホに起こされた。津波警戒警報の知らせである。早速にスマホで情報収集。本県では、御前崎、焼津、清水、本市内浦、石廊崎、下田が取り上げられていた。ううん?我が居住地は駿河湾のど真ん中。あって当然がない。なぜ??である。しかも、我が町は堤防が一番高く、次第に浮島沼へと標高が下がっていく。堤防を乗り越えられたらもうだめである。御前崎、石廊崎、下田は分かる。太平洋に直面しているからである。駿河湾に侵入した津波は焼津、清水に達し、その後はどうやら東進し、内浦湾に達する。つまりは、海岸に沿って横走りするらしい。これは素人の俄勉強で推測。裏付けるように我が町には高潮、高波、それに潮風の被害はあっても、津波の被害はかつてないようである。仄聞ながら、急深かな海岸であることが一つ、それに東に津波は進むからと聞いたことがあった。だから、内浦湾に近いほど想定被害は大きい。ハザードマップにも原、片浜は載っていない。内浦があれば、当然、西浦、静浦地区も同じであろう。ハザードマップは、第三校区、第四校区も記載する。大きな地震・津波の場合、内浦に進行を遮られた波が、狩野川を逆流すると理解している。市役所は御幸町。狩野川の堤防を越えられたら、市役所は機能不全。困った。ついでながら、我が町の懸念は元の浮島沼(たんぼ)を造成した新興地に液状化現象による被害が甚大となることでしょう。追 元吉原は、高潮、高波の被害(津波ではない)で、宿場を移して左富士の中吉原へ、そこからさらに現在の吉原本町へ。それが五三次吉原宿。旧東海道は吉原宿から南下していく。元は元吉原からどういうルートを描いたのでしょうか?

2021/01/27

高齢者と老人は異なる

 いよいよ今月卯月の半ばには満の古稀を迎える。数え年ではもう既にである。
「酒 債 尋 常 行 處 有 人 生 七 十 古 來 稀 酒 債 尋 常 行 處 有」(曲江 杜甫)
人生70年古来稀だというが、今やうじゃうじゃ。人生80年の時代、たかが70歳だ。だが、古稀を迎える私より遙かに若かった人がいたし、いる。地下鉄サリンで一躍世界に名を馳せた聖路加病院の故日野原重明氏。サリン事件のこの時、83歳で陣頭指揮を執り630名の治療にあたった。3年前の80歳の時に、大災害に備えて廊下、待合室の壁面に酸素配管2000本を設置していたそうだ。2017年満105歳で世を去られたが、96歳でなお教壇に立っていた。諏訪中央病院鎌田實先生。1948年生まれというから私より3つ上。チェリノブイリ、イラク、東北の支援を今なお続けている。「幸せだから笑うのではない。笑うから幸せなのだ」このことばにぐっときた。励ましの名人だ。何と言っても加山雄三。1937年4月生まれと言うから満83歳か。それでも若大将と呼ばれる。うらやましい限りだ。歌と海をこよなく愛す。タレント業のほか、音楽家としてギタリスト・ピアニスト・ウクレレ奏者、画家でもある。
 高齢者即ち老人ではない、と思い切って私は見栄を張る。北城恪太郞さんではないが、(あ)明るく、(た)楽しく、(ま)前向きに生きることができる人は美しく若々しい。そしてプロであり続けている。人はみな何かのプロだ。プロはその人しかできない何かができる。日野原さんも、鎌田さんも、加山雄三もできる何かをもって、明日を夢見てなお向上心を忘れず、それぞれの社会で人々に勇気と希望を与え、光を放っている。その活力、エネルギー。若い!いくら年齢重ねたって若くはいられるのだ。その逆を言えば、その心の持ちようを失った人が老人なのである。

2020/12/10

12月になっても雪がない富士山

変である。12月に入っても富士山に雪がない。うっすらと冠雪したかと思えばすぐに消えて青々とした富士に戻ってしまう。雪がないということは富士山の大気が温かいのかと思ったら、本日は-11.5度とか。同じようなことは2012年にもあった。2012年1月、今年の富士山には雪がないと言われていたら、同年1月28日、富士五湖直下震源とするM5.4、震度5弱の地震が発生した。2011.3.11は東日本大地震。さて、富士山地震、噴火などにいたらなければいいが。杞憂であってほしいものだ。富士山に積雪がないのは地熱があるからなんていうことはないだろうな。大体、安政大地震、黒船来航、安政の大獄、コロナ蔓延、インフルエンザ流行と続き、幕府は瓦解していった。世情不安や疫病流行と富士山噴火はセットになっているように感じる。大Oedm8299 丈夫だろうな。

2019/12/04

大嘗宮を見て

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もう二度とない。今生の見納めと、平日、込み合う小田急、千代田線と乗り継いで皇居へ。セキュリティチェックを受けて坂下門から宮内庁前、乾通を進み、案内に従って西詰橋を渡ったら???である。そこは江戸城本丸跡だった。明暦の大火の後、天守閣を再建しようと前田藩が築いた天守台をいただき、松の廊下跡もある。江戸幕府の心臓部だった場所である。ここは、東御苑、二の丸庭園から梅見坂や汐見坂を上がっていけば誰でも行ける場所で、私も数回訪れたことがあった。ここに!である。大嘗宮は、平安京遷都がなされて以来、朝堂院(内裏の正庁)の前庭に造営されて、大嘗祭自体が中断される時代があったものの、おおよそ大極殿の前庭に造営されるのが常だった。明治になって初めて現皇居内の吹上御所に造営されたが、それは明治の新政と無縁ではあるまい。大正、昭和天皇の時は京都御所内旧仙洞御所前庭。平成天皇は皇居内東御苑。そして今回同じ東御苑内。この場所への造営は初めてではなかったが、実際目の前にしてみると歴史を感じてならない。国破れて山河あり。城春にして…である。徳川幕府が権勢を誇った場所で、天皇代替わりの儀式である大嘗祭が行われている。徳川家の末裔の中には公団に生活している方もいると聞くし、かつての私の部下にも紀州徳川家の末裔がいた。もちろん大名生活をしているわけではない。風貌は家康に似ていたが生活は庶民だった。
 令和の大嘗宮は清水建設が9億円で工事を落札したという。秋篠宮殿下の御発言もあった。24億円の費用がかかったといわれるが、9億円を除いた15億円はどうしたのだろうと思った。今までは大嘗祭催行後は大嘗宮は破却、奉焼されてきたが、今回の資材は再利用されるという。陛下らしい。
 厳重なチャックを受けて皇居内に伺ったが無料。祝賀パレードに使用したセンチュリーのオープンカーも見られるというが見当たらない。案内所で聞いたら、四谷の赤坂迎賓館だという。初めて迎賓館内に。ここの管轄も宮内庁かと思ったら、こちらは内閣府。入館料1500円とあった。内閣府になるとどうもお金が付きまとう。桜を見る会の新宿御苑は無料だったと思うが。前庭のみは300円。長蛇の列でセキュリティチェックも空港内の保安検査と同じ機材が導入されている。リュックに背負っていた三脚は預かり処分。もち込めないという。くだんのセンチュリーはガラスケースに納められていた。菊の御紋章はついておらず、皇1なるナンバーは品川ナンバーに変わっていた。この車は内閣府の管理下になったという。
 見たかった高御座は東京では12月22~25日に2020年1月2~19日に国立博物館で無料で見られるらしい(京都では20年3月1~22日 )

 

2018/03/18

座席指定大失敗

ANA809便。Cクラスで5kを指定。富士山が見られるとの判断だったが、何とこの席は座席の横は窓が前の方に一つだけの特別席。加えて富士山付近では眠りの中に。とほほ、でした。座席指定で4を避けただけだったが。

2016/02/28

私の顔は?私が私でなくなる瀬戸際

羽田からバンコクへ。入国審査。女性審査官の後に並んでいたら、男性審査官が戻り、隣の列に移るよう指示され、審査官の前に。しかし、許可が下りない。審査官は何度も何度もパスポートを見直している。そして、もう一度、そこを見ろという指示。見れば、そこには小さなカメラがある。彼はそのカメラが捉えた私の顔とパスポート写真を比べているのだろう。それで許可が下りない。パスポート写真は5年前、2011年8月のもの。さらに審査官の「審査」が続く。この人物は、このパスポート写真の男と同一人物か、と疑っているのだろう。私?何者?私が私でなくなる瀬戸際だった。これで別室に案内されたら、尋ねてみようと覚悟した。「私は何者でしょう」と。私の顔は彼にとって実弾や薬と同じレベルということだ。果たして…。10分程して、ようやく許可が下り、微笑みの国?タイランドへ入国。この5年間、審査官が疑うほどに顔かたちは変化していたのだろうか?

2015/02/07

大失態。でも誰もがやりそう。小田急さん。

新宿発16時50分の「さがみ」に飛び乗ったつもりであった。予約した9号車12番A席の前に行ったら、ABとも乗客が座っている。??B席の客が切符を見せてくれた。間違いない。??確かめに降りようとしたらドアが閉まるではないか!!。??それは16時40分発のEXEで、16時50分発ではなかった。どうしたものか。車掌に告げたら町田で下車して、普通電車に乗り換えて、次の相模大野で予約した列車に乗れという。果たして、町田でほとんどが下車。車両はガラガラ。私の予約を確認さえすれば、そのままでも何にも影響はなし。車掌は見事なまでにマニュアルに忠実だった。それに、「迷惑な客だ」という気持ちが、発する言葉のはしはしから伝わってくる。まるで、罪人を見るような目つきだ。そうです。そうです。私が慌て者で悪いんです。それでも、私は町田で降りて片瀬江ノ島行きの普通に乗り換えたが、案内がなかったので、片瀬江ノ島行きのこの電車で相模大野に行けるのかどうか不安だった。私が確かに予約購入していることを確かめれば、そのまま空いている席にどうぞでよかったのではないか?やはり駄目ですかね。ちなみに相模大野で乗り換えた次のEXEの9号車も乗客は私ともう一人。前の電車と同じだった。さて、新宿では16時40分と50分。間は10分。車両は同じEXE。よほどアナウンスしないと間違えますよ。小田急さん。

2012/06/24

1日2万歩と街道踏破

昨日(6月22日)は午前4時頃からの猛烈な雨で朝の散歩は断念しました。日課となっている朝の散歩は午前5時に我が家を出発。6時15分に帰着するというものですが、この間歩数は8200歩から8500歩ほどです。1日2万歩を課している私としては大きな決断で、こんな日は2万歩を断念するか、夕刻にこの分を取り戻すかになります。昨日は、激しく降り注いだ雨が次第に小降りになり午後には雨が上がって、結局夕刻、やや散歩コースを変更して9千歩ほど稼ぎ、2万495歩。かろうじてですが、課した2万歩をクリアしました。
 さて、どうして2万歩かということです。この2万歩というのは絶妙で、以下の三つがないと到達は不可能です。一つは朝の散歩による8500歩。二つは通勤による5000歩ほど。三つは昼休み、昼食後の散歩で3500歩ほど。それに1日の行動の中で動き回る中での1500歩ほどが加わります。それらをすべて足しても18500歩程になって2万歩には届きません。この足りない歩数をどうするか?ゴミの日であれば積極的にゴミ捨てに行って9千歩ほどにします。昼の散歩でも決まったコースを歩き、時間を計りながら歩数確保に努めます。職場でも意識して動きます。こうすることで、辛うじて2万歩のラインに到達するのです。後500歩足りない等というときは夕食後ちょっと家の周りを軽散歩してきます。一回りで十分です。このことが大事です。500歩程度なら手が届きます。2000歩程なら何とかしようという気力も出ますが、5000歩、1万歩となるともう諦めてしまいます。人というのはそれほど意志が強いものではありません。でも、小さな目標、手が届く目標を続けることはできます。続けるところに意志が働きます。これが大切だと実感しています。

 平成24年6月10日に日本橋に到着して、お伊勢参りとその帰還の旅が終了しました。これも少しずつです。何と日本橋を出発したのは2006年8月16日。品川から川崎に至ったのが、2006年10月21日。川崎から神奈川・保土ヶ谷に向かったのが何と翌年の6月17日。伊勢神宮に至ったのはさらに先の2008年の3月16日ですからずいぶんと時間がかかりました。帰りの旅を始めたのは2010年1月ですからこれは2年後です。そして往復完結が2012年6月。日本橋・三条大橋間は33日間。復路の三条大橋、日本橋は18日でしたから、ずいぶんと間延びしています。どうして、これほど間延びしながらも続けられたのかと言えば、やり始めたのですから、途中で止めるのはもったいない、その一念でした。続けていることに揺り動かされた6年だったということです。
 もう一つあります。旧東海道、日本橋・京三条大橋間はすでに往復踏破していました。それらを振り返って、一番おもしろかったのは最初の日本橋から京三条大橋に向かう旅でした。常にはじめてで未知なのです。その未知がもたらすドキドキ感が疲れを忘れさせ、引っ張ってくれました。新しいものとの遭遇は人をずいぶんとアクティブにするようです。

2012/03/24

このすばらしい日本人

 未だに顛末が不明ですけれど、21日の朝、出勤の支度をしていたら愛用のペンケースが見つかりません。皮のケースの中身は万年筆2本。太めのパイロットのカスタム823にセーラープロフィット21で、2本ともかなり高級。さらにパイロットシャープペン、カスタム74に同じくグランセ。双方で1万円ほどするものです。万年筆タイプのサインペンも入っていました。それが見つからないのですから、ペンケースがない、ないと大騒ぎです。
 前日に私は沼津発7:00の東京行き5号車3D席で品川まで乗車していました。帰りも東京発16:22に沼津行きグリーン車6A席で帰ってきています。行きの電車の中で、このペンケースを開けて中から水性ボールペンを出したのは覚えています。しかしながら、品川で降りるときに座席は確認して、総武・横須賀線に乗り換えています。忘れた覚えが全くありません。どこで紛失したのでしょう。最悪はリュックの中から落ちたのが気づかなかった場合です。
 21日、帰路ひょっとすると帰りの車輌?と思って沼津駅の改札で確かめましたけれど「ありません」という返事。それに車輌はJR東日本のものですので、そちらにお訊ね下さいと電話番号を案内されました。帰宅し、ただちに案内先に確認電話を入れましたが、「ありません」とのこと。すっかりしょげ返っていました。
 翌日、ふと思い出して、飯田橋にある警視庁遺失物センターに電話を入れましたが、電話ガイドでは分かりません。ただインターネットに検索サイトがあることを知って、アクセスしたら筆入れの遺失物があることだけは分かりました。それで、再度前日案内されたJRの案内に電話を入れてみたのでした。すると、何とそれらしきものがあるという回答です。しかも、それは私が乗車した東海道線、沼津発7:00のグリーン車からの拾得であることも分かりました。さらに担当官は東京駅八重洲口の遺失物センターに連絡をとってくれ、二度三度と電話をくれて確かに私が紛失したものであることを確認してくれたのでした。
 すごい!
 私自身がどこで落としたのかも覚知していません。恐らく、私が車内で使用した後、空席だった隣席にリュックを置きましたので、リュックに入れたつもりが座席に置いて背もたれとの間に紛れたのだろうと推測しました。
 東京行きの東海道線は品川から新橋を経て終点東京まで行きます。そこで下りの電車に早変わりです。わずかな時間にそのためのシートチェンジが行われます。その短い作業の際に係員が見つけたのでしょう。それが、遺失物センターまできちんと届くのです。そこがすばらしい!何という日本人のすばらしさ!
 ペンケースの中身は5万円を下りません。氏名を彫り込んであるパイロット823は別としてセーラーもシャープ2本も、牛革製のなめし革のペンケースも売り払ってしまえば、それなりに値が付くはずです。しかしながら、それを我がものにせず、きちんと届ける、届けた先は問い合わせに懇切丁寧に対応する、日本人というのは何とすばらしいことか!日本の治安のよさは、Kobanの存在でもなく、防犯体制でもなく、一人一人の清い生き方の中にあるような気がしてなりません。
 つい先日訪れたベトナムではガイドからリュックは前に背負ってください、モバイルはしまっておいて、一人歩きはしない、眼鏡も注意とか、持ち物の安全をこと細かに指示されました。15年ほど前に出張したブラッセルでは、空港のロビーでベンチに座り、首からかけていたカメラを外し、横に置いて汗を拭って、ふと横を見たらもうカメラが無くなっていました。
 何という違い! 本当にすごい!

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