無料ブログはココログ

Taku's World

2016/01/10

正月は厳粛を味わうとき

今年の正月は何と濃密であったことか。除夜の鐘が鳴る頃、氏神さんである浅間神社に初詣。その足で菩提寺へ新年の墓参り。一寝して、原の海岸へカメラかついで初日の出を拝みに。元旦の駿河湾は風穏やかで波なく、やがて、伊豆連峰は赤く染まって、平成28年の幕開けが演じられた。家に帰ってしばらくして、今度は和服に着替えて三島大社へ。昨年に比し何と和服が少なくなっていることか。  元旦だというのに怒りもふつふつ。昨年もそうだったが、三嶋大社、成田新勝寺、多くの参拝客で賑わう中、拡声器を竿にくくりつけ、または背負い、なぜ、「神は…」とわざわざやりに来るのか。あの排他性は、ISとおなじ。シーア派とスンニ派のようなものだ。新宿駅西口でやるのならまだ許せるが、こうして初詣にくる参拝者に向かって神社や自分たちの教義をがなり立てるのは嫌がらせでしかない。参拝者は「罪深く懺悔しなればならない」のか。彼らを止めるには、キリスト教会の前で、太鼓鳴らしてお念仏なりお題目を唱え、罰当たりと叫ぶしかないのかもしれない。  さて、正月2日。伝統行事は、田舎ではなく都会でなくては伝承でいなくなっている。例年と同じで、駒込の六義園で神田囃子、寿獅子を見、次に浜松町に行って、旧芝離宮恩賜庭園の弓道場で行われている「三番叟」を鑑賞。一昨年羽織袴の外国人が演奏していたが、今年は中学生。参加型の三番叟を楽しみ、次は上野の旧岩崎邸洋館での尺八、箏曲の演奏を堪能した。この三箇所で共通していたことは、お志の依頼があったこと。このような伝統行事を伝承していくには費用が要る。ボランティアではできないことで、本来なら予算を付けて守らなければならないことだが、資金が不足しているということだろう。  4日は成田山新勝寺。青春切符でグリーン車。本殿で護摩行を受けられる。無病息災、開運を願ってきたが、ここにも参拝者嫌がらせのキリスト教団がムードをぶち壊している。こういうのは信教の自由ではなく、信教の妨害。彼らこそ大いに懺悔し罪を償ってもらいたい。

2015/01/06

正月の怒り

【いったいあれは何なんだ!?】

初詣に出かけた。年に1度のことで、息子と私とで和服の親子。社前までの長いこと。長いこと。ようやく、参拝も済ませ、大門の外へ出たら、そこも大賑わい。ここまでは怒りではない。何とそこにはキリスト教信者がプラカードを掲げごった返す初詣者に向かって、説教の録音を流し続けているではないか。罪を自覚しなさい。神は…とやっている。それと全く同じ事が成田山新勝寺の門前でも行われていた。彼らのプラカードやイデタチまで同じだったから組織的な行為であり意志であろう。不愉快この上ない。初詣を神の意志に反した堕落とか罪だと言いたいのか!?日本のこの風習に挑戦でもしたいのか?キリスト教を批判するつもりはない。だから、この行為が新宿駅前とか池袋駅前なら許せることだ。だが、初詣の人々が押し寄せる神社仏閣の門前では話が違う。それは布教ではない。単なる嫌がらせであり、他宗教(初詣を宗教行為と思っていないが)排斥行為だ。それはイスラム国の野蛮な行為とその精神性において何ら違いはない。同じ事をイスラム教の祭典の日にモスクの前で行ったらどうなるか?クリスマスの日に、このキリスト教団施設におしかけ、お念仏やお題目をやたったらどうか?考えなさい!嫌がらせで入信する人は一人もいないのだ。病気の人に入信を迫る宗教も邪教。弱みにつけ込むのはとても宗教とは言えないからだ。

【いい加減にしろ!中年夫婦】

正月4日。その成田山新勝寺表参道のお蕎麦屋さんに入った。お昼時。相席にようやく座ることができた。そばは速く手軽が命。かけ声もあって粋のはず。店員は言葉を発せず、メモと目配せで動いている。妙な空気の中で、注文の天ぷらそばは、30分経っても出てこない。次第に客からクレームがつき始めた。40分経った。私たちも予定した電車に乗れないことが決定的になった。そこで、怒りは最初のクライマックス。そして、このそば屋での怒りの矛先の主役が登場。主役は後から私たちの席に相席になって鎮座した中年夫婦だ。芸名「しゃべり亭狐狸」。いよいよ始まり。きつね亭主が熱燗を注文して飲み始めた。その亭主を連れ合い狸は、口汚い品のない言葉でののしる。それが止まらない。ようやくにして、止まったかと思ったら、今度は、他愛もないことを聞こえよがしだ。私たちの存在など眼中にないかのごとくで、まるでかっぱえびせん。止められない止まらないだ。語調は女王様で、とげがある。それが辟易するくらいに延々と続く。もう勘弁してよ!だ。ようやくにして私たちの待ちに待った注文品が届いた。食べ始めたら、少しして彼らにも注文した「きつね」に「たぬき」が届いた。その注文品が可笑しくてぐっと笑いをこらえていたら、いわく、「天ぷらじゃ時間がかかるからこれで正解ね」ときた。食べ始めればしゃべりも止まるだろうと期待していたが、予想は外れ。食べながらしゃべっている。いやあ、しゃべりながら食しているが正解だ。どうして食せるか不思議だった。誰かやってみませんか。とにかくしゃべってみる。そのしゃべりを止めずに麺を口に入れる…。私は内心毒づいていた。いい加減にしろ!小学校1年生の給食だってもっと静かに食べる。いい歳して何だ?年齢は年齢相応に振る舞え!バカモノ!食べている1杯の天ぷらそばが美味しいはずがなかった。出て行けバカモノ!

【本物か?】

成田山の護摩経を終えて帰路。参道で千葉の落花生を土産に買った。袋に成田山と金ラベルが貼ってある。いわく、これはうちだけが成田山の許可を得て名前をいただいて売っている。その金ラベル自体が土産になると二つを買い求めようと手に取ったら、横から女将さんが、同じものですからと手前の商品の山から二つをビニール袋に入れてくれた。ところが、車内で開けてみてびっくり。何とその品物には金ラベルがない!千葉産の落花生はブランド品だが、現行法では袋の中に1粒でも千葉産が入っていれば全体が千葉産になるという仕組みになっている。何しろ、落花生は千葉の特産品で、千葉県というだけでブランド。だが、同県の中国からの輸入量も全国第1位。成田山参道では巧妙に商談して金ラベルの貼ってある商品から、他の商品とすり替える。詐欺まがいのこの商売なら、購入した中身は察しがつく。観念して食してみたら、やはりアメ横のたたき売りと同じような味で、本牧埠頭に何日も山積みされて腐らない中国産薬漬け落花生に1粒の千葉県産が混じった「千葉県産」だろうと納得した。この罰あたりめ!安いと思ったのが運の尽きだった。

2014/02/16

こんな世界もある

2月11日は建国記念日。この日、凍てつくような寒さの中を代々木上原から明治神宮前2014211omotesanndouへ。表参道を上り明治神宮に出かけたら、外人ツアーに出くわした。積み上げられた酒樽の前でガイドは「Rice Wine」とのたまわっていた。なるほど!清酒はRice Wineか!この日は神宮にとっては特別な日。特別な人たちでごった替えしているだろうと思ったが、飛び交うのは英語に中国語。春節だものね

表参道は真冬のお祭り。反対車線には日の丸掲げた街宣車。ファッションブランドビルの前を雅楽が鳴って、神主を先頭に、ボーイスカウト、園児のパレード、その後は大学のマーチングバンド、そして御神輿。あの寒い中、いや凍えつくような寒気の中、下は締結1枚素足に上は法被姿の御輿会がそれぞれの御輿を担いでうねりながら明治神宮に向かっていく。そこに特別な世界が出現したような錯覚に陥る。こんな世界があって、こんな人たちがいるんだ!

 

>

2012/05/13

激しい変化の中に生きている

 5月1・2日とお休みをいただいて9連休を作りました。職場の若い衆が言います。もう退職した人ですから、自由に休めるとき休んでください…現役時代は連休などはないに等しかったのに、そうか、もう組織外の人か!自分の中ではずっと仕事が続いていて、現役の組織人のつもりが、他から見るともう外の人。組織で重要だと思っているのは自分だけで、組織から見ると所詮「嘱託」。
 時は動いている、私という存在も時の流れの中で存在自体が変化していたのでした。
 4月28日に始まったGWで、私は、箱根越えに躊躇してしばらく止まっていたお伊勢帰りを再開たのでした。三島から2日かけて箱根越えして(かつては1日で踏破していたのですが…)小田原に。それから日を変えて二宮まで歩き、さらに二宮から平塚、そして昨日は平塚から戸塚まで歩きました。一昨年度、始めたお伊勢帰りも日本橋まであとわずか。3日ほど歩けばゴールです。
 月日は流れています。毎年同じなどありません。箱根を越えて、小田原に至って、小田原城の藤を見に行ったのですけれど、異変としか言いようがありませんでした。5月のGWでは例年満開になる藤の古木が、つぼみにちょっと花開いたくらいの二部咲き程度です。例年とは違う!20120505dasi
 北海道から帰った翌日の5月5日。再び小田原から日本橋を目指して歩こうと小田原に降り立ったら、何やらお囃子が聞こえてきます。小田原は5月3日の20120505mikosi_3北条5代祭りに引き続き松原神社の例大祭になっていたのでした。お恥ずかしながらで、小田原にあのような勇壮なお祭りがなされていることなど知りませんでした。詳しくはこちらのページをご覧下さい。本社御輿は特に見事です。
 世の中は動いていて、どこでも何かが起きているのですけれど、その動きに気づいてはいません。その動きに気づいたときに「発見」があるのです。なかったものが現れたのではありません。
 昨日行った戸塚もそうでした。戸塚駅はいつからあんなに変わったのでしょう?旧東海道往復の中途で、お伊勢参りの中途で、戸塚駅での乗降はもちろん、駅前通過もありました。しかし、あんな駅ビルはなかったはずですが…。でも、毎日少しずつ工事が行われ、今や当然のごとくそこに鎮座しておられるのですけれど、久しぶりに出現した私には驚きだったのです。
 茅ヶ崎の小出川脇、神奈川県衛生研究所前には旧相模川橋脚を復元したモニュメントのある公園がありました。大正時代の地震で飛び出してきた旧相模川の橋脚だそうですけれど、かつての東海道歩きの時は、工場の敷地横の未整備の公園だったり、工事中だったりで、このような姿を見る機会はありませんでした。この公園横の工場だって今やニトリです。
 改めて、地球はとてつもないスピードで自転・公転しています。時間も過ぎ去っていきます。その時間とともに私も齢を重ねていますし、この地にとどまること知らずです。昨日の私は今日の私ではありません。目にしてる光景も人も昨日と同じではありません。明日の眼前の光景も明日はまた違っているでしょう。私という存在は、人間というものは何という一瞬の生き物でしょうか。
 

2012/03/24

このすばらしい日本人

 未だに顛末が不明ですけれど、21日の朝、出勤の支度をしていたら愛用のペンケースが見つかりません。皮のケースの中身は万年筆2本。太めのパイロットのカスタム823にセーラープロフィット21で、2本ともかなり高級。さらにパイロットシャープペン、カスタム74に同じくグランセ。双方で1万円ほどするものです。万年筆タイプのサインペンも入っていました。それが見つからないのですから、ペンケースがない、ないと大騒ぎです。
 前日に私は沼津発7:00の東京行き5号車3D席で品川まで乗車していました。帰りも東京発16:22に沼津行きグリーン車6A席で帰ってきています。行きの電車の中で、このペンケースを開けて中から水性ボールペンを出したのは覚えています。しかしながら、品川で降りるときに座席は確認して、総武・横須賀線に乗り換えています。忘れた覚えが全くありません。どこで紛失したのでしょう。最悪はリュックの中から落ちたのが気づかなかった場合です。
 21日、帰路ひょっとすると帰りの車輌?と思って沼津駅の改札で確かめましたけれど「ありません」という返事。それに車輌はJR東日本のものですので、そちらにお訊ね下さいと電話番号を案内されました。帰宅し、ただちに案内先に確認電話を入れましたが、「ありません」とのこと。すっかりしょげ返っていました。
 翌日、ふと思い出して、飯田橋にある警視庁遺失物センターに電話を入れましたが、電話ガイドでは分かりません。ただインターネットに検索サイトがあることを知って、アクセスしたら筆入れの遺失物があることだけは分かりました。それで、再度前日案内されたJRの案内に電話を入れてみたのでした。すると、何とそれらしきものがあるという回答です。しかも、それは私が乗車した東海道線、沼津発7:00のグリーン車からの拾得であることも分かりました。さらに担当官は東京駅八重洲口の遺失物センターに連絡をとってくれ、二度三度と電話をくれて確かに私が紛失したものであることを確認してくれたのでした。
 すごい!
 私自身がどこで落としたのかも覚知していません。恐らく、私が車内で使用した後、空席だった隣席にリュックを置きましたので、リュックに入れたつもりが座席に置いて背もたれとの間に紛れたのだろうと推測しました。
 東京行きの東海道線は品川から新橋を経て終点東京まで行きます。そこで下りの電車に早変わりです。わずかな時間にそのためのシートチェンジが行われます。その短い作業の際に係員が見つけたのでしょう。それが、遺失物センターまできちんと届くのです。そこがすばらしい!何という日本人のすばらしさ!
 ペンケースの中身は5万円を下りません。氏名を彫り込んであるパイロット823は別としてセーラーもシャープ2本も、牛革製のなめし革のペンケースも売り払ってしまえば、それなりに値が付くはずです。しかしながら、それを我がものにせず、きちんと届ける、届けた先は問い合わせに懇切丁寧に対応する、日本人というのは何とすばらしいことか!日本の治安のよさは、Kobanの存在でもなく、防犯体制でもなく、一人一人の清い生き方の中にあるような気がしてなりません。
 つい先日訪れたベトナムではガイドからリュックは前に背負ってください、モバイルはしまっておいて、一人歩きはしない、眼鏡も注意とか、持ち物の安全をこと細かに指示されました。15年ほど前に出張したブラッセルでは、空港のロビーでベンチに座り、首からかけていたカメラを外し、横に置いて汗を拭って、ふと横を見たらもうカメラが無くなっていました。
 何という違い! 本当にすごい!

2012/02/07

退職後のボランティア

  2月5日(日)は地区一斉の海岸清掃でした。狩野川河口から西へ田子の浦港に至る、およそ10㎞に及ぶ海岸線は、千本松原と呼ばれ、日本100景、日本の白砂青松100選にも選ばれている名勝です。しかしながら、かつては藪に囲まれてうっそうとしていた千本松原も海岸線に防潮堤が築かれて以来、松枯れがおびただしく伐採せざるを得ない松も少なくない状況です。この松林の惨状を憂い、松林保全のためにボランティアに勤しんでおられる方々が数多くいらっしゃいます。
 千本松原は波打ち際から防潮堤までは100㍍近い砂利浜を従えていますが、台風時等の高波は防潮堤近くまで押し寄せてこの砂利浜にゴミを置いていきます。富士川(時として狩野川の物も)や近くの放水路の漂流物が流れ着くのですが、人間はこれ程ゴミを出しているのかと思うくらい、ビニールゴミにプラ容器、流木、紙類など、生活廃棄物が海岸線を覆っています。それを住民総出で拾うのが恒例の浜清掃です。何しろ広い。その広い砂利浜のゴミを拾うとなるとその広さが途方もなく感じられて、夏場などは勘弁して下さいと申し上げたいくらいです。
 ところが、どういうわけか今回の浜清掃では拾うべきゴミが見つかりません。ゴミ拾いならぬゴミ探しのような供役でした。
   聞くところによれば、30代の青年がボランティアでこの海岸線の美化活動に取り組まれているとか。(当然敬語です)「富士山が見える海岸がごみだらけでは」というのが、この名前も知らぬ青年の動機のようですが、当然無給です。頭が下がります。頭が下がると同時に青年をこのようなボランティアに駆り立てているのは何か?と考えざるをえません。

  阪神淡路大震災ではボランティア参加者数は1日2万人超。3か月で延べ117万人とも言われました。平成7年がボランティア元年と言われるゆえんです。余談めきますが、阪神淡路大震災と東日本大震災との111日経過時点での双方のボランティア数を比較した珍しい統計があります。阪神淡路では総計1,193,700人、1日平均10,756人。東日本大震災は499,300人で1日あたり4,498人となっていて、阪神淡路大震災に比すと3.11は桁外れにボランティア数が少なくなっています。そうは言っても週末に参加者数が一挙に増える傾向があるのですから決してボランティア熱が冷めたわけではないでしょう。今なお続く余震。福島原発の放射能の影響。近隣から支援にいくどころか被害が広大で甚大すぎてボランティアの入りようがないというのが実情でしょう。ボランティア熱の高まりに陰りなし、こう申し上げていいと思います。
 千本松原の保全活動にも地元の有志が複数の団体を作ってたずさわっていますが、枯れ松伐採、下刈り、ゴミ拾い等々、機材を持ち込み黙々と作業に打ち込んでいます。もちろん無償のボランティアです。
 このようなボランティア活動に現役を終えた退職組が取り組むのは心情的には共感を覚えます。齢を重ねるほどに価値観の重きは「心」に移っていきます。一線を退き、職縁社会とも遠くなっていくと社会有為な存在として自分の生き場所を見つけはじめます。ボランティアを通した仲間とのつながりもボランティアに走らせる一つの要因でしょう。そう分析すると人間というのは本当に社会的な生き物であり心をよすがにする生き物だと思わざるをえません。
 青少年犯罪の要因の第1位は1960年代までは経済的理由。1970年代以降は存在感の喪失だそうです。子どもたちに潜む寂寥感、孤独感は、その後の人生に深く影を落とします。必死になって自分のより所を求めて生きる。この青年を浜清掃に駆り立てている背後にはそんな来し方がもたらす存在感の喪失があるのではないか。私はそんな風に感じ取っています。退職組のボランティアも同じ心持ちです。
 私にしても現役を退いた今は現役と変わらぬ職務といっても日給にして約6000円。時給にすれば手取り730円程です。現役時代は1日約2万円超の給与。講演しても講演料なしですから時給の730円がいわば講演料です。それでも働いています。収入に拘泥なし。考えてみれば仕事というよりボランティアと申し上げた方がいいでしょう。加えて地域の役職依頼もついて回るのですから、61歳はやはり現役とは違います。
 日本人は不思議です。45歳ナイスリタイアが理想、その後は貯めたお金で世界を回りたいとナイスブリティッシュは夢を語っていました。ずいぶんと感覚が違います。必死に世間に縁(よすが)を求めて生きていこうとするのが日本人で、それは欧米人の理解を超えているでしょう。その欧米人の価値観にも時代の変化が生まれています。

 Muenchen で出会ったecoproject、MobilSpiel の若き活動家、Steffi Vreuzinger は、こう語りました。

 「人々の関心は満足した生活を求めることから心の問題に移ってきている。豊かさとは、精神的な充足感に包まれていることだ。」

 分かりますなあ。家に居たって退職組は殆ど爺・婆の2人ですから。でも、30代青年とリタイア組とが同じような心境になっているところに世相があると思いますがいかがでしょうか?

追 若者のボランティア参加は大歓迎です。でも気になります。JICA青年海外協力隊への参加が激減しているのだそうです。どうしてでしょう?

2012/01/01

和服姿でオンリーワン

あけましておめでとうございます。本当はこう書いていいか分かり201211misimataisyaません。昨年母がなくなって喪中。新年のご挨拶ご遠慮申し上げます。控えさせていただきますというべきでしょう。それでも、除夜の鐘とともに近所の浅間神社に初詣に甘酒を勧められて口中難ありで、次いで伺った菩提寺では、つみれ汁にお酒、さてさて、何のための初詣やら?夜が明けて、恒例の三嶋大社詣でに。神仏加護の祈願のまるで「はしご」ですね。三嶋大社へは、和服に着替えて、身を正し。ところが、JR三島駅から大社まで私はオンリーワン。境内に入っても和服は見えず。あのごちゃごちゃと混み合った参拝者の中で、私は和服オンリーワンを演じ、衆目を集めていたのでした。結局、三島駅に帰りつくまでに見かけた和服男性は3人。女性は4人。合計7名。おそらく5000人はくだらなかったでしょうから、その中のたった7名。もう少し観察を厳しくすると女性スカートも皆無に近く、同様にスーツ姿の男性もいません。今から20年ほど前はこうではなかったというのが感想です。和服ならずともネクタイにスーツだったり、女性もまたそれに近い出で立ちで現れました。それが、この変化。
 さて、どうして?
 今年、見受けた他2名も含めて年の頃は50歳後半以上。かつては、若者に和服姿が見られ、それもカップルというのが珍しくなかったのですが、今や晴れ着ではなく普段着で、それも不思議と一様です。ユニクロファッションとでもいいましょうか?神様もずいぶんとフレンドリーになりました。でもね、ファッションの色は黒、灰色、紺、茶が基調でドブネズミ色です。景気を反映しているのでしょうか?
 私がなぜ、和服かと言えば、それは正月だからで、せめて1年に1度は和服で衣を正しという心持ちが働くからです。かつての日本には折口信夫らが指摘するハレとケの文化がありました。晴れ着、祝い膳ですね。そういう季節の節が生活の中から消えて、熱帯気候のような衣食住です。節々が生活から消えています。節は強くしますが、節のない脆弱さは我が国の姿のようなものです。
 どうして和服が消えていくか?①レンタルが一般化している。正月にわざわざレンタルまでして和服を着るものはいない。それに成人式まで近い。②高価。いつの間にか和服は高価になって、足袋から襦袢、帯、雪駄または下駄、その他一式そろえると万の桁が二桁に上る。ちょっと生地にこったら、それこそ目が飛び出てしまう。しかも着る機会は一年に1度か2度。買って着るわけがありません。③面倒。本来は、これほど便利な衣装はありません。基本的に体を布で包んで紐(帯)で縛っておくだけのものです。しかしながら、その着こなしや縛り方に結構知恵を絞りますから、一人で着こなす人が殆どいなくなりました。それで着付け。Wahuku屋が繁盛。だいたいが衣装を身にまとうのにお金払って誰かに着せてもらうようなものが広まる訳がありません。さらにちょっと汚れたら、染み抜きや洗いに出します。ワイシャツを洗濯屋に出すのとは訳が違います。これも万のお金です。廃れるべくして廃れる。当然の帰結ですね。でもね.着物という衣の文化は我が国の伝統文化であり.心です。普段は洋服でも、1年に1度くらいは…。そう「節」ですね。生活の中にハレという節があることで、己に帰るのです。居住まいを正す。今や死語になっている、この心がどこかに生きている世の中でありたいと思います。
 本当はもう一つ私が和服を身にまとう理由があるんです。綾小路きみまろの爆笑スーパーライブに「最後に見たものは」というのがあるのですけれど、中高年はいつ何どき何があるか分かりませんから、今年和服が着られたとしても来年はどうか分かりません。そう思うと、1年に1度和服を着られる幸せを感じるのです。もちろんです。しっかり写真に納めました。ひょっとするとこの写真、どこかで使われるかもしれませんね。元旦早々失礼しました。

最近のトラックバック

2017年10月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31