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Taku's World

2020/08/27

死ぬまで生きる

石原慎太郎の「死ぬまで生きる」という言葉にドキリとした。テレ朝の玉川氏に「生きていることと死なないことは違う」と付言されて、自らの人生の主題を考えた。慎太郎は法華。来世は虚無と言い切る。我が菩提寺も日蓮宗で現世成仏。己に頂いた時間の軸に何を置くか。カラオケ三昧の高齢者達にクラスター発生。カラオケを軸に老後の人生か。同じような類いはうじゃうじゃ。夢の浮世をただ狂えが何と多いことか。卒業式つぶした大学教授だっていた。四年前京都造形芸術大学卒業生には九六歳がいた!これは世界最高齢大学卒業年齢でギネス記録。62歳京都大学経済学部卒業生代表も。ボランティアに生涯を授ける人も。コロナ渦は残酷に生き方を炙り出している。時間がない。10年なんてあっという間だ。

2020/04/29

小松左京 復活の日に似すぎている今日

「復活の日」小松左京(角川文庫 初版:昭和50年10月30日 本書は第11版)
 主人公吉住らを載せた原子力潜水艦が浦賀水道に入り潜望鏡から見える、街の光景からこの話は始まる(プロローグ)。白骨化した死体、動物たちの死体、転がっている電車、草の生えた線路、そこは生き物のいない廃墟と化した日本の姿だった。この潜水艦には米国、ソ連、オランダらの乗組員がいるが、すでに彼らの祖国はなかった。全世界、全人類が消えたのである。
 表紙の裏に次のような書き出しがある。
 人類には明日があるか…。BC(生物化学)兵器として開発された新種の細菌、それはちょっとした偶発事故からでも、人類を死の淵に陥れる
 ----吹雪の大アルプスで小型機が墜落、黒焦げの乗員と部品や胴体の破片が発見された。この機には、秘密裏に開発された猛毒性を持つMM菌のカプセルを搭載していた。わずか摂氏5度でも気ちがいじみた増殖をはじめ、ハツカネズミが感染後5時間で98%が死滅!MM菌の実験データは冷酷に告げている。
 春になり雪どけがはじまると、奇妙な死亡事故が報告されはじめた……。
 人類滅亡の日も刻一刻と近づく。著者最高のSF長編小説。

 MM菌とは英国陸軍の秘密の細菌研究所で密かに開発していたMM87の実験過程で生まれた変異種で、上記にあるような猛毒性とキチガイじみた増殖率を有する危険なウイルスだった。それが暗闇組織に渡り、その組織がこのMM88を搭載した飛行機で運ぶ途中、アルプス越えに失敗して墜落。2月のことだった。3月、4月になると世界各地で異変が起き始め、野ねずみや羊が大量死。人も原因不明な事故や突然死が相次ぐ。米国でも乳牛がやられ七面鳥がやられ、犬が死に、中国ではアヒルが大量死して、新型ニューカッスル病と呼ばれた。一方、高い感染力と死亡率をもったチベット風邪と呼ばれる不明の新型インフルエンザが大流行。小児麻痺も流行。このMM88は核酸兵器でウイルスの核に入り込み、相乗効果を生み出す。生体に感染している、ありふれたミクソウイルス、つまりはインフルエンザやニューカッスル病等に乗って感染していく。しかも猛毒性でキチガイじみた増殖率で。他のウイルスに入り込むのだから見えない。しかも知られていない。当然である。もとはと言えば米国が宇宙から採取した菌を変異させ密かに培養していた秘密の菌を盗み出し開発していた細菌兵器だからである。
 この小説の結末から言えば、全世界のほ乳類が滅び全滅し、生存していたのは極寒の南極基地にいた人間だけ。そこに巨大な地震が発生する予知データが入り、米ソに存在する自動報復措置が稼働する可能性があることが判明。しかもソ連のそれは南極を向いていた。それを知った南極に生存していた4人が死を覚悟してワシントンとモスクワに向かい、そのスイッチをOFFにすることを試みられるが、間一髪間に合わず、互いの中性子爆弾の打ち合いが起こった。もちろん、すでにMM88にやられて人1人いない世界に、である。
 だが、南極を発つ前に偶然に中性子を浴びたMM88は変異して、ウイルスを殺し、無害になることが判明。その変異種を注射してでかけたのが主人公吉住であった。
 結果的に米ソの中性子爆弾による報復の仕合いは、MM88に中性子を浴びせることになり変異を呼び、収束することになるが、時すでに遅し。世界の人類は南極に残した人以外全滅したのである。偶然にも地下にいて中性子爆弾の被害をかすかに受けただけで生き延びた吉住はワシントンから歩き続けて、南アメリカの南極間近な地点にたどり着くという壮大なSFである。

2020/03/25

起きるぞ感染爆発

起きるぞ爆発感染。3月2日からの休校要請はそれ自体より、それは強い警告メッセージになって、国民に危機感をもたらせ自粛モードをもたらせた。そうであるのに解除。緩んだ。上野公園で例年通りの桜宴会に興じるお馬鹿、原宿では人混みに繰り出す無神経。ライブハウスで踊り狂うアホ、BBQ禁止の立て札無視で子どもを連れて無法BBQを楽しむ大馬鹿、海外の感染地域を旅して返るノータリン。要請無視で決行して感染者を射したK-1の無責任主催者、怒り心頭で言を待たない。一方、満員電車で通勤する人々の哀しみと哀れさ。これを何とかできるのは公権力を発揮できる信頼のある政権しかない。あーあ。世も末。

2020/02/21

元年元旦はない。例外明治そして首都東京

 令和2年、あちこちの会合で挨拶で触れるのは、元年元旦はない。故に2年が実質新元号の最初の年であるということ。令和も同じで平成31年元旦はあっても、令和元年元旦はなかった。それは平成も昭和も大正も同じだった。平成は昭和天皇が17日に崩御され(実際は1224日に亡くなられていたという説もある)、元号法によって18日が、平成がたった日になる。わずか1週間。元旦はなかった。
 例外があった。明治である。改元の日は慶応498日。これは旧暦で西洋暦では18681023日。だが、明治には元旦があった。慶応411日に遡って明治にしてしまったのである。それほど新体制に早く変えたかったのだろう。それ故に併用して慶応497日までを明治とも称したのである。井沢元彦流に表現すれば慶応4年元旦から97日は消されてしまったということになる。
 この間の解説は手短ながら井沢元彦の「逆説の日本史22」の冒頭が面白い。
 明治はいくつかあった候補から明治天皇がくじで決めた。明治とは易経「聖人南面而聴天下嚮明而治」からとったもの。明治は易経、令和では原典万葉集と強調したのも出典を日本古典にこだわったからであろう。民衆は面白い。司馬遼太郎だったか井沢だったか、明治を「おさまるめい」と読んだそうである。この時、一世一元も決められた。
 井沢の同書は首都東京にも言い及んでいる。
 大久保利通は新都は大坂と強く考えていたらしい。京都は四方に山に囲まれた盆地だが、大坂は海に開いている。江戸は京都から見たら東の京。だが、これには中国に東京があった。長安から見た東の都すなわち洛陽の異名である。もっとも、江戸を東京と改称することは早くから決めていたらしい。江戸イメージを払拭できるからである。都はどこにすべきか。井沢は大久保への投書で決まったと紹介している。その投書の趣旨は①大坂は経済の中心、東京は政治都市。ここを首都にしなければ滅ぶ。よく分かる。②日本列島の中での位置。ど真ん中でバランスがいい。蝦夷地や新政府に抵抗していた奥州列藩にも近いことがあったろう。③首都として整備する財源の問題。幕府が使っていたものを再生すればいいのである。大久保が大坂から東京に傾いた主因は③だろうと井沢は推察しているが、そうであろう。幕府が滅んであちこちの藩邸跡や旗本宅など空き家になった。その空き家に薩長の新政府軍が勝手に住みついた。新政府軍ならまだいい。得体の知れない輩も勝手に住みついたのもあったのである。言い方を変えるなら新たに建設する用は省ける環境があったと言えよう。金のなかった新政府が東京を首都にした事情がよくわかる。
 面白いのはこの投書の主は「前島密」であったこと。前島は今こそ郵便制度の父と呼ばれ、POSTを郵便としたり、切手、はがきという名称も創ったりした郵便の父として著名だが、幕臣であった。幕臣がゆえに大久保との面識があろうはずがなく、投書という手だてしか持ち合わせていなかった。
 余程優秀な人であったろう。
 もとは現在の上越市あたりの豪農の子であったが、父を亡くし母方の叔父の藩医に養われ、江戸で医学を修め蘭学と英語を学んだ。航海術も学び、薩摩藩の洋学校の蘭学講師にもなっている。そして明治。明治2年に明治政府の招聘で民部省・大蔵省に出仕し、翌3年には太政官に郵便制度を建議し渡英もし、今日の郵便制度の形を創ったのである。投書に見るような状況を俯瞰する思考、新しい時代を嗅ぎ何をなすべきかを感じ取り実行に移す行動力。明治にはこうした偉人がきら星のごとく現れた。

2019/10/22

隠者の境涯

毎朝五時、カメラ持参で八千歩の散歩に出る。見え隠れする富士のお姿、変わる明け六つの暁光、風の騒ぎ、餌を狙うサギ、水面を滑る鴨にオオバン。桜も散るに嘆いて気がつけば道の辺の木槿。湖水のごとき五月雨の田はやがて稲穂に埋まる。日々に滞留なし。原・沼津間車中七分、積もって一年。十二冊を読了。時は磐走っても淀みがあり泡沫もある。いずれに身を置くか。時は濃く遣え。そう語りかけて時の流れに我が身を置くのみ。

2019/10/18

あちこちにガタがきて

  退職して8年。あっという間だった。あちこちにガタが来始めている。この一年で歯を3本失った。両眼の水晶体はもはやレンズだ。新築間もない頃(平成5年)に構えた沼津垣は、竹が傷んでほつれ始めた。玄関灯も壊れて新品に。昨年末にはキッチンセットがアウト。その前年はバスだった。今年3月末にはPC。退職年度(平成22年)の8月に大枚叩いたオーダーメイドのSONY製Desktopは、HDDの寿命が尽きた。しかもSONYはPCを撤退。修理不可でリカバリーできずだ。だが、このトラブルで換装を覚え、再生したPCでCloud(OneDrive)を使いこなしている。
 HPは開設して22年。来訪者は3万5千人を超えていた。「老いてけぼり」等というブログも2つほど起ち上げた。だが、それでも私の主たる情報ツールはfbに移っていった。なぜか。fbの「友達」の反応は素早く多い。二つ、私の1日はカメラ持参の散歩に始まるが、その生活日課に写真とfbが位置付いた。特に写真と相性がいい。三つ、fbを介してネット上に新しい友達が広がっている。

 毎朝見ている散歩の風景は瞬時に変わる。常ならずで、変化の波上に生きているようなものだ。この波のうねりは激しい。少年期、土用波の打ち際に飛び込んでは波向こうに浮かび、波に乗って磯に戻る遊びを楽しんだ…。何とスリルがあったことか。誰かが言った。舟を漕ぐものは船酔いしない。確かに。波を楽しむものもまた然りである。

沼津市教職員互助組合会員誌「にちにち」応募原稿

2019/07/29

佐々木投手の登板回避と部活の闇

部活ガイドライン 抜け道探る動き 「闇部活」の実態

名古屋大学大学院の内田良が表記の小論をWEB上に寄せている。部活ガイドラインの内容は、平成9年9月の体育審中間まとめの内容に近い。あれから22年、何ら変わっていないということだ。だが、その中間まとめも当時の高体連、中体連の組織をあげての抵抗にあって、本答申では消えている。大体が、部活動の負担軽減など彼らが賛成するわけがない。高体連も中体連も、新潟高野連の負担軽減にクレームを付けた高野連も、役員たちはその既存の体制の中で地位を得ている人たちだ。その彼らが自らの足下がぐらつくような改革に乗ってくるわけがないのである。そして、部活動の厄介なところは、特に高校は〇〇大学何人合格、全国総体優勝などを生徒集めのPRに使い、まるで自校の教育成果が有名大学に入れることやインターハイで好成績を修めるところにあるような振る舞いをしているのだから、そう簡単に改革ができるわけがないのである。現実を見たらいい。国際大会で活躍している選手たちで、部活動だけで育ってきた選手が何人いるのか。我が国の全体的な国際大会の結果を見たって、個人スポーツが殆ど。野球やサッカーだって、部活動育ちではなく、クラブ育ちが殆どだ。もっとも中体連の野球は軟式だが。もはや選手育成などは部活動では無理なのだ。大体が公立中学校は小規模校化でチームスポーツはチームを組むこと自体が難しくなっている。学校体育は生涯体育の一貫に位置づけて、ほどほどに、そして運動を好きになるところで十分なのだ。私学経営者もスポーツで経営しようとするなら、クラブをつくればいい。高校に在籍させて、例えば野球のために授業は適当でいい。成績不良でも単位はあげる、修学旅行は行かせず練習優先、なんてあってはならないはずが、それがまかりとおる。変ですよ。それは大蔵省、財務省、それに文科省の責任が大きい。部活動を容認し学校体育でスポーツ行政をやってきたおかげで、この国には、プロのスポーツ指導者が育たなかった。要するに科学的知見をもったスポーツ指導者が殆どいないという状況を生み出してきたのである。生涯スポーツ振興にはお金がかかる。余程学校で学校の施設を利用して、学校の先生方にまかせておいた方が安上がりにできるからである。逆にスポーツ指導者で生計を立てるには、水泳、柔道、剣道、最近では卓球、体操等、個人が入会できるスポーツの分野でしかない。奇しくも大船渡野球部の國保陽平監督は、筑波大学体育専門学群を卒業、社会人クラブチームにも所属し野球米国にも渡り独立リーグの選手にもなっている。さらに監督とはいっても体育科を担当するの教師なのである。大学での知見、米国での経験など国際感覚も有した監督だったのである。佐々木投手は奇跡的によき監督に巡りあったというべきである。
 野球は特別ではない。朝日新聞や毎日新聞が大会を組織しイベントにし記事にしているからおかしくなる。多くの他の種目と同様で、全国大会はインターハイなのである。一同に会せずともいい。5月から1週間に一度の地域リーグ戦や代表戦を7月までにやって代表が甲子園に集まったとしても、4日以上は開けるようにしないといけない。夏の暑さの中、汗と涙、連投にもめげず、ファンがドラマを見るために部活動をやっているのではない。そんな美化されたストーリーのために野球をやっているわけではないはずだ。
 終わりに一言。私は昭和50年代に部活動を学校体育から外に出し、学社連携で実施した経験を有している。私自身、部活動に熱かった教員であったが、この学社連携の育成会によって、①専門的指導者を得て部活動自体の成績は飛躍的に向上した。②これが何より。中学校において、部活動の時間的制約を受けずに、放課後、学習における個人指導や生徒会活動、学級会活動が極めて充実した。勤務時間内から部活動を実施していた他校にはなかったことである。

2019/07/28

趣味では通用しない

FBで家内は産経展の会友資格を得てはいるものの会友申請していないと書いたが、理由はいくつか。産経国際書展の場合、出品公募の50%くらいが入選するのだそうだ。その入選者の中から秀作賞、特選、特別賞とあがっていく。そのうち都美術館に展示される作品は秀作以上で入選作品は展示はされない。名前のみである。しかし、都美術館で展示されているのは、大部分が審査を経ない、つまりは顧問とか理事とか評議員とかの役職の人たちに加えて、審査員や会友の人たちの作品である。会友になるには秀作以上の受章を何回か受けないとなれないのだという。会友になれば審査なしに作品は展示されるのであるが、その会友になるためには年会費2万円の納入が必要ということ。理事や評議員になるとさらに納入金は高くなる。加えて、展覧会の準備の作業お手伝いが加わる。家内は、この納入金を毎年は納められないからを理由に会友申請をしていないのである。さらに家内曰く。会友になれば出品すれば展示してもらえる。一般公募だと審査を受ける。だから、作品を仕上げるのに努力する、それが大事なのでという。だが、会場で大作を見ると、特別賞をいただいる作品は大きく費用と時間がかかっていることがよく分かる。あの大きさの作品を仕上げるには、仕上Oedm9930げる「アトリエ」が必要だが、あいにく、我が家にはその ようなスペースはない。この作品を書いているときは机の上に書いては紙をずらして書いては紙をずらしての繰り返しだった。当然のことながら、よくみると縦の構造に若干の歪みが出ている。目の肥えた審査員は一瞬で見破るであろう。書には広々とした稽古場が必要。家内は自分の創作活動の限界を悟っていると感じた。これが二つ。三つは、前述した役職そのものも長い月日と会派活動、ときには毛並みが必要。家内は、子育てや家庭内、仕事上の都合で稽古はしていたが、会に属した創作活動は20年ほどの空白がある。一般社会ではそれが通常であろう。
 友人の安藤豊邨君は、20代で豊田市の名誉市民になり小学校教員も辞めた。辞めたというより辞めざるを得なかった。二頭は追えなかったのである。書に人生を託した、それで書の世界の中核になり得たし今日がある。

書展を二つ鑑賞したが、その世界は、職業芸術家が師弟関係という巨大な秩序を形成して存在しているのであった。

 

2019/05/10

気力の低下に愛機の故障

連休明け、どうも体調が思わしくなく、気力も失せ始めていると感じている。ここのところ、朝の散歩にも出ないことが多くなってきている。

風邪を引き咳き込んでいたのが回復。喜んであちこちに出かけてぶり返し。それに抜歯も大きい。だが、それだけではない。

書斎の愛機VPCL22AJのwin10へのアップから変調が顕在化して、結局アウト。それで仕方なくWEBで見つけた安価(そう読み取れた)な業者に依頼。日光まで旅させて入院させた。ところがである。まず、愛機が規格を超えているという理由で5000円+。どのような点検をするかでさらに1万2千円超を+。見積もり依頼したら、10日も遅れて見積もりが届いたが、この時点で20日を超えていた。見れば、HDDがクラッシュとか。それでHDDの部品交換。都合3万8千円ほど。合計すれば5万円を遙に超える額。webではすべて4890円。ウソだろう。さらに、2TBだった愛機のHDDは500Gで帰ってくるとか。しかもデータ回収不能。自分でアプリは再インストールしてくれとのこと。結局、HDDの交換だけの修理。内臓HDDは2TBで7000円から1万円で手に入る。自分で換装すれば、それで終わりだった。アウトの原因がHDDにあると分かれば、その時点で外に出さず、早く仕上がって、元に戻った。法外な金払ってHDDの交換だけ。すっかり打ちのめされた。知識は金。思い知らされましたね。この商法、PCを送ることから始まるが、結局PCを人質にキャンセルできない状態を作るかなり怪しげな商法。
 かつて、SONYのデスクトップ機が変調を来してSONYに修理出したら、メモリーが壊れています。弊社で修理しますかと聞いてきた。自分でしますと言ったら、費用は5000円だった。そして同等品のメモリーを購入して入れ替えて復活。

 今回は全く違った。東京PC。この名前にもまやかされた。「東京」のもつ信用力だ。さて、どうするか。結局、修理キャンセルするとまたキャンセル料。仕方なくHDDを交換し、それはそれで保管して、つまりは保険にして、自分で元の2TBに換装することにした。このHDD代は別にかかるが(SDDへの換装も可能なようでWEB上で紹介されていた。ここまで費用は5万円超。知識不足のために発生した研修代だった。

 この間、落ち込みも激しかった。いつもの仕事ができないことに加えてどのように帰ってくるか心配で。結局、ダウンロードして導入してあったアプリの中にシリアル番号等が不明なものがあり、それは捨てることにもなる。さらにCドライブにあった私の約10年の講演等の音声データ約半分が消滅。殆ど外付けに記録させておいたデータが全てではなくcにもあったということ。トホホでさらに気力を失わせてくれた。

2019/04/30

譲位による令和が始まる

明日5月1日は令和元年5月1日。そう書いて元年が5月1日はやはり変だと感じた。令和元年1月1日。こう書けたらよかったものを。そういえば、新元号の元年に1月1日はないことに気がついた。平成元年は1月8日から。昭和天皇御崩御の昭和64年1月7日の翌日だ。昭和元年は何と12月25日で元年は1週間しかなかったことになる。大正は7月30日。明治は西暦(グレゴリオ暦)1868年10月23日(太陰暦で慶応4年9月8日)からだが、この時は詔書に「改慶應四年爲明治元年」とあったから法的には明治元年1月1日が存在したことになるそうだ(wikipedia)。生前退位とマスコミは報じたが、正確には譲位。世襲を原則とした地位の継承を指すのだそうで、陛下も生前退位なる言葉には衝撃と違和感を覚えられたとか。とまれ、光格天皇( 安永8年11月25日 から文化14年3月22日ー1817年5月7日)以来だから歴史的なことになる。皇室典範は天皇崩御によってのみ皇位継承が行われることを定めていたのを陛下のお言葉を受けて譲位可能に改正された。陛下にとっては、かなり踏み込んだご決断であったことが知れる。もっとも皇室典範原案には譲位制度があったのを高輪会議で伊藤博文が反対して消されていたのが、時代を経た今になって原案に戻したに過ぎないが。長い皇室の歴史では譲位は珍しくはない。御崩御を「穢れ」として忌み嫌ったからとも解説されている。
 それにつけても、譲位ならなぜ1月1日にできなかったのか。恐らく、陛下がお言葉を発しても、それを受け入れるかどうかの議論が長かったためとしか私には映らない。御崩御の月日は特定できないが、譲位ならできたはず。当時の権力者伊藤博文の意向で原案が変わってしまった皇室典範だから、陛下のご意向を大切にすれば、早くに結論は出たはず。そうすれば1月1日が可能であったろうに。何しろ折り込みチラシには令和売り出しがあり福袋まであった。まるで二度目の正月が来たようだ。
 別事だが、田原総一郎は、なぜ女性天皇を認めないかについて、明治天皇は大元帥だった。女性が大元帥になるわけがないから男系と定めた。それを(大元帥になるはずがない)今になっても、なお続けていると断じておられたが、時代の変化は天皇は男系であるべきなのかというメッセージも送っている。実際、推古、皇極、斉明、持統天皇等1770年までに2人の重祚も含めて10代の女性天皇がいらしたのだから。当然と思い込んでいることも元をたぐれば、かなり??があることに気がついた。これも遅かったか。今日で平成が終わるのだから。

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