無料ブログはココログ

Taku's World

2022/07/25

ホスピタルの滞在に

〇急に喉が痛みを感じたのが12日の夕刻。13日は結構痛みを感じて、明日に備えた。明日は定期検診で、その後には、数軒訪れて、所用する予定が入っていた。この「訪れて」が心配で、定期検診をしている主治医のところで、喉の痛みを話したら、相手にされなかった。うちでは対応していないの一言だ。そうなら、内科、耳鼻咽喉科へ等とアドバイスしてくれればいいものも、それすらなかった。もう主治医はやめるか。仕方なしに、コロナ検査可能な近くの内科医を訪れた。病院では別室に案内され、防御服をまとった看護師に、どうします?PCR検査にしますか?抗原検査にしますか?と訊かれたので、早く結果を知りたい私は抗原検査と申し上げた。しばらくして、完全防御の先生が、鼻の中をごしごし。10分を待たず、陰性ですという。それなら、この喉の痛みは何だろうと聞くと風邪でしょうと風邪薬を処方された。この後、3カ所ほど訪れて所用を済ました。検査は、その支障をなくすためだった。それらも終わり、家に帰り、処方された薬を飲んだが、一向に喉の痛みは消えないばかりか、熱も上がってきた。37℃を超えたところで、不安はますます増幅。抗原検査をすり抜けたコロナかと案じた。喉の痛みは激痛に。15日、16日と、氷でのど元を冷やしても変わらず。深夜にベッドで転げ回った。思い出したようにかつていただいた飲み残しのカロナールを飲んだが、収まらない。17日も同様。18日になって耳鼻咽喉科の当番医が本市にやっとやってきた。開院と同時に当番医へ行き、しばらく待って診断を受けた。鼻からカメラを入れて、即座に、これは手術に点滴だなと診断。市立病院への紹介状を書いていただいた次第である。風邪薬はすぐに捨てなさい。で、処方された投薬を昼から飲むと痛みはどんどん減少していく。風邪でないのに風邪薬を飲んだって効くはずがない。当然なことだ。
〇翌日、市立病院へ。開院一番で飛び込んだが、入口でストップ。紹介状を持っていても、喉の痛みでは入れられないと病院スタッフ。やがて、看護師が見えて、紹介状を受け取って消えた。しばらくすると、診断するが、PCR検査を受けてくださいとのこと。1度家に帰って、10時の検査まで待機して、再び市立病院へ。プレハブの検査小屋に入ってPCR検査。結果を待つまで隔離された待合室へ。約1時間後、陰性であったことを告げられて耳鼻咽喉科へ。ここでも待った。受診者は誰もいない。のに待った。12時を回って、やっと診察室に呼ばれて、冷凍の麻酔剤を口に。喉奥でゆっくり溶かして、麻酔が回るのをまったが、効いてきた気配がない。そうして、やっとDr.に。麻酔注射を打つという。歯医者の治療と同じと言うが、麻酔が効いてきたときの、あのしびれ感が全くない。それでも注射。思わず顔をしかめた。それでもいよいよ手術。喉の奥を切って、そこから扁桃腺回りにある膿を吸い出すのだという。切開が始まった。だが、麻酔が殆ど効いていない。悲鳴を上げた。痛い。それでも手術は進む。激しい出血である。涙を出しながら我慢して、手術終了。時計を見たら、14時25分。??である。私の感覚では夕刻。時計が狂ったかである。
〇こうして、入院生活が始まった。その日の夕食。病院食でも美味しいこと、美味しいこと。当然である。今まで痛くて痛くて食事が喉を通らなかったのだから。
〇入院生活。病室での携帯は禁止。この場合は、通話のこと。スマホやPCは許可を必要とすること。内部をSNSに投稿すること禁止。家族との連絡はメールが唯一の手段。WIFIは当然のごとく走っていない。後から入ってきた隣室は、スマホだろう。笑い声を出している。早朝5時前からである。おそらく、スマホ画面を見ているのであろう。そういう私も、昼間はPCでプレゼンを作成していた。
〇食事に水やお茶が付いていない。コロナ禍だからであろう。その分、休憩室に自販があると看護師に教えられえ、お茶や水を購入しに行った。入院中、かなりの量だった。点滴をしながらの歯磨き、洗面、それにトイレは不自由だった。あのポールを引きずって歩くのである。
〇読書が進んだ。わずか3泊だったが、文庫本2册を読了。
〇流石に入院である。血糖値を計る、血圧を測る、点滴の様子を覗って交換。医師の定時検診。早朝から深夜、そして早朝。1日に何回、見えただろう。相当に世話になった。喉元を手術してしまってからは、健康人同様だから、この入院生活を楽しんだ。4人の相部屋。それぞれの病状や状況が聞こえてくる。病院にはソーシャルワーカーも居て、患者の面倒を見ていた。相部屋も個室と同じ。それぞれ、交流しているわけではなく、別個の生活をしている。互いにカーテンの中で個の生活をしている。他者に負担をかけないよう自粛するのが普通。だが、全員、そういう人だとは限らない。難しいものだ。

2022/05/25

70代、人生は自分が創る 雲外蒼天

 開いてみるものである。6月に奈良・京都方面を終活旅行しようか等と戯れ言から、奈良を下調べすべく、サライ11月号秋麗特大号を開いてみたら、どきりである。サライ・インタビューに登場していたのは稲田弘。肩書きにトライアスリート・88歳とあった。しかも、トライアスロンに70歳から挑戦したという。この気力に完敗。67歳で妻は逝き、その後は1人。トライアスロンを軸に食を管理して生活を創っている。気力もさることながら財力にも完敗。同じ人に若宮正子さんがいる。御年87歳。世界最高齢のプログラマー。いくつかの政府の審議会などの委員も務める。この人も67歳でパソコンを手にして、退職後を創っている。生活は創るもので、あるのではない。自分が創っていくのである。故長瀬省吾氏は仰った。70代が一番辛い。確かに。早速にその辛さを味わっている。いくつかのオファーを失い、何もない。何もないから自分で創る。その辛さ。来し方が偲ばれて、それで良かったのかと問うてくる。これも辛い。「雲外蒼天」、みをつくして料理帖巻1で、易者水原東西に澪が言われた運命だった。雲外蒼天、そう思って己の生活を処していかなくてはならないのだろう。

 

2021/11/15

個独に生きる

 

 11月13日(土)に諏訪中央病院の鎌田實先生が原地区センターに見えられてテレビ寺小屋の番組収録を公開された。その中の一節が標題である。孤独ではないことがミソ。簡単に言えば自立である。自立して生きる。現職時代、仕事から帰れば、夕食が用意されて、入浴して着替えて、夕餉を食して寝る。その繰り返しで一方的な扶助だった。家内も仕事を持っていたから、多くは同居していた母たちの援助だったが。それが一変したのは1年半程前だ。家内がわずかに入院して、その間1人生活で炊事洗濯、片付けを経験。以来、私は三食台所に立つのを日常にし始めた。
ルーティンに位置付いた台所仕事
 私のルーティン化された日課を紹介しよう。起床は午前3時台。起きて最初に、手洗いと口すすぎ。それから台所に行って、食器カゴの食器を食器棚に収める。これはここで、これはこちらという具合に収めて次の炊事がスムーズになるように整理しておく。次に珈琲や紅茶を煎れる。それから台所を片付けて書斎に入る。書斎はやや寒いくらいがいい。PCの前に座りメールやニュースをCheckし、物書きや調べごとに入る。そうこうして明け六つ前30分にカメラ持参の約8千歩の散歩に出る。夏至の頃は大変。何しろ夜明けは午前4時20分等という1日だから明け六つ30分前というと3時50分位だ。それが今時となると明け六つは6時20分。冬場はじっくり書斎仕事に没頭できる。散歩から帰ったら朝食づくり。朝食を食べて片付けて、それから再び書斎に入って撮ってきた写真をFBにアップ。再び論考や資料作りに入って、11時を過ぎた頃に昼食作り。昼食が済んだら、片付けて12時頃に家を出る。原駅ではなく片浜駅まで約6000歩を歩く。13時過ぎに喫茶店に入りPCに向かって約2時間半。午前中の仕事を続ける。仕事には対価があるが、これには対価なし。依頼されてしゃべりに行ったり指導に行ったりしているが、そのための準備で、それは自主的にしていること。この年齢になるとこのような「仕事」があることに感謝したい。「脳活」の機会を頂いているからである。
 午後3時半過ぎ、近くの実家で書作をしている家内の迎えを得、買い物しながら帰宅して夕食作り。夕食を食したら、片付けて早々に就寝。大凡、これが我が日課でルーティンである。もっとも、最近は、散歩から帰る時間が遅いので、家内が朝食の準備をしているし、片付けは家内の仕事になっている。どうも家内は私が台所に立つことが、主婦としての沽券に関わると思っているらしく、私の台所仕事を隙さえあれば取ろうとしている節が見える。
 いずれは1人
 古稀を過ぎた私たちにとってみれば、人生のエンディングに入っている。私など今後10年生存すれば御の字である。それならまだいい。決して壮健とは言えない家内が先立ったら、それはまさしく孤独な生活の日々が待っているということである。私の台所生活を含むルーティンはそのための準備生活の意味をもつ。一時期携わった洗濯も、洗濯機に放り込めばいいというものではない。洗剤の洗濯やその分量。洗うものを仕分けして、どのように洗うかを選択。干すにも皺を伸ばす。干して取り込んでも、その取込方にも工夫がいる。そうした体験ができたことは1人生活の準備という視点で見れば貴重だった。
 同じように台所仕事も体験しなければ分からないことが多々あった。気づいたことは、台所仕事は一連のシステム化した流れの中で行われているということ。冷蔵庫を覘く。冷蔵庫にあるもので、献立を考える。献立は計画しない。これは齋藤孝先生の教え。料理は脳活なんだそうだ。冷蔵庫内のもので、何ができるかを考える。その考えることが脳を活性化させるということであろう。冷凍術も覚えた。ご飯は炊いたら今食べる分を除き、即座に冷凍。その冷凍用の容器も百均で買い求めた。冷凍されたご飯はレンジの「あたため」二度押しでふんわりと温かく解凍できる。少々技が必要だが。冷蔵と冷凍、その使い分けにも工夫が要る。そして冷蔵庫内に補充。それは買い物。  
 近くにはスーパーが4店舗程あるが、それぞれ特色があることも知った。これは次回で述べるが、支払い方法もそれぞれ。野菜や肉の新鮮で安いところは?乳製品の安いところは?お酒は?という具合である。で、店舗を使い分ける。
 そうしてみると、台所に立つと言っても、買い物、献立、調理、片付け、食器収納、それらが一連の流れになっていることに気づく。そして、それぞれにアタマを使う。脳を使っているのである。ひょっとすると女性が長生きするのは、そうした「脳活」を日常的にしているのかもしれないと思う。
 私の台所仕事は結構凝っている。既製品を使わないようにも努めている。例えば、チューブの洋辛子は使わない。水加減して粉洋辛子を練る。そして、その水加減を容易にするために箸から器に水が伝わって流れ落ちるようにして注ぐ。理科実験の応用である。煮物の下味も出汁も自作。工夫を凝らす。これが結構楽しい。楽しんで脳活しているのである。
 個独に生きる。その第一歩は男子厨房に立つである。
  

2021/01/27

高齢者と老人は異なる

 いよいよ今月卯月の半ばには満の古稀を迎える。数え年ではもう既にである。
「酒 債 尋 常 行 處 有 人 生 七 十 古 來 稀 酒 債 尋 常 行 處 有」(曲江 杜甫)
人生70年古来稀だというが、今やうじゃうじゃ。人生80年の時代、たかが70歳だ。だが、古稀を迎える私より遙かに若かった人がいたし、いる。地下鉄サリンで一躍世界に名を馳せた聖路加病院の故日野原重明氏。サリン事件のこの時、83歳で陣頭指揮を執り630名の治療にあたった。3年前の80歳の時に、大災害に備えて廊下、待合室の壁面に酸素配管2000本を設置していたそうだ。2017年満105歳で世を去られたが、96歳でなお教壇に立っていた。諏訪中央病院鎌田實先生。1948年生まれというから私より3つ上。チェリノブイリ、イラク、東北の支援を今なお続けている。「幸せだから笑うのではない。笑うから幸せなのだ」このことばにぐっときた。励ましの名人だ。何と言っても加山雄三。1937年4月生まれと言うから満83歳か。それでも若大将と呼ばれる。うらやましい限りだ。歌と海をこよなく愛す。タレント業のほか、音楽家としてギタリスト・ピアニスト・ウクレレ奏者、画家でもある。
 高齢者即ち老人ではない、と思い切って私は見栄を張る。北城恪太郞さんではないが、(あ)明るく、(た)楽しく、(ま)前向きに生きることができる人は美しく若々しい。そしてプロであり続けている。人はみな何かのプロだ。プロはその人しかできない何かができる。日野原さんも、鎌田さんも、加山雄三もできる何かをもって、明日を夢見てなお向上心を忘れず、それぞれの社会で人々に勇気と希望を与え、光を放っている。その活力、エネルギー。若い!いくら年齢重ねたって若くはいられるのだ。その逆を言えば、その心の持ちようを失った人が老人なのである。

2020/08/27

死ぬまで生きる

石原慎太郎の「死ぬまで生きる」という言葉にドキリとした。テレ朝の玉川氏に「生きていることと死なないことは違う」と付言されて、自らの人生の主題を考えた。慎太郎は法華。来世は虚無と言い切る。我が菩提寺も日蓮宗で現世成仏。己に頂いた時間の軸に何を置くか。カラオケ三昧の高齢者達にクラスター発生。カラオケを軸に老後の人生か。同じような類いはうじゃうじゃ。夢の浮世をただ狂えが何と多いことか。卒業式つぶした大学教授だっていた。四年前京都造形芸術大学卒業生には九六歳がいた!これは世界最高齢大学卒業年齢でギネス記録。62歳京都大学経済学部卒業生代表も。ボランティアに生涯を授ける人も。コロナ渦は残酷に生き方を炙り出している。時間がない。10年なんてあっという間だ。

2019/07/29

佐々木投手の登板回避と部活の闇

部活ガイドライン 抜け道探る動き 「闇部活」の実態

名古屋大学大学院の内田良が表記の小論をWEB上に寄せている。部活ガイドラインの内容は、平成9年9月の体育審中間まとめの内容に近い。あれから22年、何ら変わっていないということだ。だが、その中間まとめも当時の高体連、中体連の組織をあげての抵抗にあって、本答申では消えている。大体が、部活動の負担軽減など彼らが賛成するわけがない。高体連も中体連も、新潟高野連の負担軽減にクレームを付けた高野連も、役員たちはその既存の体制の中で地位を得ている人たちだ。その彼らが自らの足下がぐらつくような改革に乗ってくるわけがないのである。そして、部活動の厄介なところは、特に高校は〇〇大学何人合格、全国総体優勝などを生徒集めのPRに使い、まるで自校の教育成果が有名大学に入れることやインターハイで好成績を修めるところにあるような振る舞いをしているのだから、そう簡単に改革ができるわけがないのである。現実を見たらいい。国際大会で活躍している選手たちで、部活動だけで育ってきた選手が何人いるのか。我が国の全体的な国際大会の結果を見たって、個人スポーツが殆ど。野球やサッカーだって、部活動育ちではなく、クラブ育ちが殆どだ。もっとも中体連の野球は軟式だが。もはや選手育成などは部活動では無理なのだ。大体が公立中学校は小規模校化でチームスポーツはチームを組むこと自体が難しくなっている。学校体育は生涯体育の一貫に位置づけて、ほどほどに、そして運動を好きになるところで十分なのだ。私学経営者もスポーツで経営しようとするなら、クラブをつくればいい。高校に在籍させて、例えば野球のために授業は適当でいい。成績不良でも単位はあげる、修学旅行は行かせず練習優先、なんてあってはならないはずが、それがまかりとおる。変ですよ。それは大蔵省、財務省、それに文科省の責任が大きい。部活動を容認し学校体育でスポーツ行政をやってきたおかげで、この国には、プロのスポーツ指導者が育たなかった。要するに科学的知見をもったスポーツ指導者が殆どいないという状況を生み出してきたのである。生涯スポーツ振興にはお金がかかる。余程学校で学校の施設を利用して、学校の先生方にまかせておいた方が安上がりにできるからである。逆にスポーツ指導者で生計を立てるには、水泳、柔道、剣道、最近では卓球、体操等、個人が入会できるスポーツの分野でしかない。奇しくも大船渡野球部の國保陽平監督は、筑波大学体育専門学群を卒業、社会人クラブチームにも所属し野球米国にも渡り独立リーグの選手にもなっている。さらに監督とはいっても体育科を担当するの教師なのである。大学での知見、米国での経験など国際感覚も有した監督だったのである。佐々木投手は奇跡的によき監督に巡りあったというべきである。
 野球は特別ではない。朝日新聞や毎日新聞が大会を組織しイベントにし記事にしているからおかしくなる。多くの他の種目と同様で、全国大会はインターハイなのである。一同に会せずともいい。5月から1週間に一度の地域リーグ戦や代表戦を7月までにやって代表が甲子園に集まったとしても、4日以上は開けるようにしないといけない。夏の暑さの中、汗と涙、連投にもめげず、ファンがドラマを見るために部活動をやっているのではない。そんな美化されたストーリーのために野球をやっているわけではないはずだ。
 終わりに一言。私は昭和50年代に部活動を学校体育から外に出し、学社連携で実施した経験を有している。私自身、部活動に熱かった教員であったが、この学社連携の育成会によって、①専門的指導者を得て部活動自体の成績は飛躍的に向上した。②これが何より。中学校において、部活動の時間的制約を受けずに、放課後、学習における個人指導や生徒会活動、学級会活動が極めて充実した。勤務時間内から部活動を実施していた他校にはなかったことである。

2018/12/28

キリスト教と創価学会の葬儀

年末になって、続けて訃報が二つ。その葬儀はキリスト教に創価学会。クリスチャンと知らずに通夜に行って、そのまま御霊前を出しても何事もなかった。着席して祭壇を見たら、そこにはキリスト協会のお花が。顔面がかわっか。何より驚いたのは故人を兄弟と呼び、賛美歌が奏でられることだった。翌日の葬儀も同じ。弔辞ではなく思い出。協会関係者の思い出は原稿なし。賛美歌が歌われるせいかもしれないが、何とく明るい。創価学会員の葬儀には坊さんはいない。学会員が取り仕切る。見えている学会全員が読経するので、会場にはお題目やお経響きわたっている。賛美歌でもお経、お題目でも同じだ。教義よりあの一体感、繋がり意識であり、夢中になれることが、信仰の対象ではないのかと感じた。

2018/02/20

水戸黄門に喝采

 『水戸黄門』の作者は「原案・脚本・葉村彰子」になっている。『大岡越前』『江戸を斬る』も「葉村彰子」で、それって誰??というところだが、Wikipediaでは、「逸見稔が中心となって構成していた創作集団。当時、映画出身の作家に対しテレビラジオ出身の作家の待遇が悪く、その待遇改善のため、1970年向田邦子・松木ひろし・窪田篤人・津田幸夫によって作家集団SHPを作る。 さらに大西信行・櫻井康裕・田口耕三・柴英三郎が参加。やがて加藤泰・山内鉄也・岡田裕介(元俳優・東映プロデューサー)も参加する。」とあった。創作集団で納得した。しかも、あの逸見稔。199512962歳に若さでこの世を去ったテレビプロデユサーだ。水戸黄門を単なる娯楽時代劇と見てはいけない。昨日、BSTBS6の水戸黄門(再放送)には、「わしの後ろ盾にはとてつもない人が居て」というくだりがあった。作家たちの世間智だね。手下を従えやりたい放題の御仁は、それができる環境に身を置いているのであって、終始後ろ盾に忖度を働かせて、その力を借りて側を演じている。そうでなければ、そうはやりたい放題、悪態の限りはできないはず。この後ろ盾から下部に至る陰の勢力が大手を振って歩く。どこにもある構図だ。外側の無勢は黙っているだけだ。ろくでもないのは、自ら、この勢力に入り込み、やりたい放題を楽しむ輩だ。無勢はじっと黙ってそれを見ている。従順になっているようで心の中は「いつか見てろ」だ。傍若無人の多勢には正直も苦労も誠意も思いやりもモラルそのものがあったものではない。番組で描かれている、この図式を感じ自らが身を置く世界に同化させて、最後は水戸黄門が出てきて懲らしめてくれると分かって見ている。そこが人気で、視聴者は正義漢、水戸黄門一行が、少数でばったばったと多勢の陰の組織を打ち倒し、それらを懲らしめるから溜飲が下がるのである。この紋所が目に入らぬか!そんなのありっこない、ありっこない虚構の世界だけれども、自分の周りにいる、これら傍若無人の知性や理性の欠片もないバカモノどもを、助さん、角さんの腕力とヤシチの情報収集力、黄門様のご意向で、跪かせる、それも権力だけれども、そんな権力であってほしいという願望があり、それが出現するから溜飲が下がるのである。

2016/01/10

正月は厳粛を味わうとき

今年の正月は何と濃密であったことか。除夜の鐘が鳴る頃、氏神さんである浅間神社に初詣。その足で菩提寺へ新年の墓参り。一寝して、原の海岸へカメラかついで初日の出を拝みに。元旦の駿河湾は風穏やかで波なく、やがて、伊豆連峰は赤く染まって、平成28年の幕開けが演じられた。家に帰ってしばらくして、今度は和服に着替えて三島大社へ。昨年に比し何と和服が少なくなっていることか。  元旦だというのに怒りもふつふつ。昨年もそうだったが、三嶋大社、成田新勝寺、多くの参拝客で賑わう中、拡声器を竿にくくりつけ、または背負い、なぜ、「神は…」とわざわざやりに来るのか。あの排他性は、ISとおなじ。シーア派とスンニ派のようなものだ。新宿駅西口でやるのならまだ許せるが、こうして初詣にくる参拝者に向かって神社や自分たちの教義をがなり立てるのは嫌がらせでしかない。参拝者は「罪深く懺悔しなればならない」のか。彼らを止めるには、キリスト教会の前で、太鼓鳴らしてお念仏なりお題目を唱え、罰当たりと叫ぶしかないのかもしれない。  さて、正月2日。伝統行事は、田舎ではなく都会でなくては伝承でいなくなっている。例年と同じで、駒込の六義園で神田囃子、寿獅子を見、次に浜松町に行って、旧芝離宮恩賜庭園の弓道場で行われている「三番叟」を鑑賞。一昨年羽織袴の外国人が演奏していたが、今年は中学生。参加型の三番叟を楽しみ、次は上野の旧岩崎邸洋館での尺八、箏曲の演奏を堪能した。この三箇所で共通していたことは、お志の依頼があったこと。このような伝統行事を伝承していくには費用が要る。ボランティアではできないことで、本来なら予算を付けて守らなければならないことだが、資金が不足しているということだろう。  4日は成田山新勝寺。青春切符でグリーン車。本殿で護摩行を受けられる。無病息災、開運を願ってきたが、ここにも参拝者嫌がらせのキリスト教団がムードをぶち壊している。こういうのは信教の自由ではなく、信教の妨害。彼らこそ大いに懺悔し罪を償ってもらいたい。

2012/06/24

1日2万歩と街道踏破

昨日(6月22日)は午前4時頃からの猛烈な雨で朝の散歩は断念しました。日課となっている朝の散歩は午前5時に我が家を出発。6時15分に帰着するというものですが、この間歩数は8200歩から8500歩ほどです。1日2万歩を課している私としては大きな決断で、こんな日は2万歩を断念するか、夕刻にこの分を取り戻すかになります。昨日は、激しく降り注いだ雨が次第に小降りになり午後には雨が上がって、結局夕刻、やや散歩コースを変更して9千歩ほど稼ぎ、2万495歩。かろうじてですが、課した2万歩をクリアしました。
 さて、どうして2万歩かということです。この2万歩というのは絶妙で、以下の三つがないと到達は不可能です。一つは朝の散歩による8500歩。二つは通勤による5000歩ほど。三つは昼休み、昼食後の散歩で3500歩ほど。それに1日の行動の中で動き回る中での1500歩ほどが加わります。それらをすべて足しても18500歩程になって2万歩には届きません。この足りない歩数をどうするか?ゴミの日であれば積極的にゴミ捨てに行って9千歩ほどにします。昼の散歩でも決まったコースを歩き、時間を計りながら歩数確保に努めます。職場でも意識して動きます。こうすることで、辛うじて2万歩のラインに到達するのです。後500歩足りない等というときは夕食後ちょっと家の周りを軽散歩してきます。一回りで十分です。このことが大事です。500歩程度なら手が届きます。2000歩程なら何とかしようという気力も出ますが、5000歩、1万歩となるともう諦めてしまいます。人というのはそれほど意志が強いものではありません。でも、小さな目標、手が届く目標を続けることはできます。続けるところに意志が働きます。これが大切だと実感しています。

 平成24年6月10日に日本橋に到着して、お伊勢参りとその帰還の旅が終了しました。これも少しずつです。何と日本橋を出発したのは2006年8月16日。品川から川崎に至ったのが、2006年10月21日。川崎から神奈川・保土ヶ谷に向かったのが何と翌年の6月17日。伊勢神宮に至ったのはさらに先の2008年の3月16日ですからずいぶんと時間がかかりました。帰りの旅を始めたのは2010年1月ですからこれは2年後です。そして往復完結が2012年6月。日本橋・三条大橋間は33日間。復路の三条大橋、日本橋は18日でしたから、ずいぶんと間延びしています。どうして、これほど間延びしながらも続けられたのかと言えば、やり始めたのですから、途中で止めるのはもったいない、その一念でした。続けていることに揺り動かされた6年だったということです。
 もう一つあります。旧東海道、日本橋・京三条大橋間はすでに往復踏破していました。それらを振り返って、一番おもしろかったのは最初の日本橋から京三条大橋に向かう旅でした。常にはじめてで未知なのです。その未知がもたらすドキドキ感が疲れを忘れさせ、引っ張ってくれました。新しいものとの遭遇は人をずいぶんとアクティブにするようです。

最近のトラックバック

2022年11月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30