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2020/02/21

元年元旦はない。例外明治そして首都東京

 令和2年、あちこちの会合で挨拶で触れるのは、元年元旦はない。故に2年が実質新元号の最初の年であるということ。令和も同じで平成31年元旦はあっても、令和元年元旦はなかった。それは平成も昭和も大正も同じだった。平成は昭和天皇が17日に崩御され(実際は1224日に亡くなられていたという説もある)、元号法によって18日が、平成がたった日になる。わずか1週間。元旦はなかった。
 例外があった。明治である。改元の日は慶応498日。これは旧暦で西洋暦では18681023日。だが、明治には元旦があった。慶応411日に遡って明治にしてしまったのである。それほど新体制に早く変えたかったのだろう。それ故に併用して慶応497日までを明治とも称したのである。井沢元彦流に表現すれば慶応4年元旦から97日は消されてしまったということになる。
 この間の解説は手短ながら井沢元彦の「逆説の日本史22」の冒頭が面白い。
 明治はいくつかあった候補から明治天皇がくじで決めた。明治とは易経「聖人南面而聴天下嚮明而治」からとったもの。明治は易経、令和では原典万葉集と強調したのも出典を日本古典にこだわったからであろう。民衆は面白い。司馬遼太郎だったか井沢だったか、明治を「おさまるめい」と読んだそうである。この時、一世一元も決められた。
 井沢の同書は首都東京にも言い及んでいる。
 大久保利通は新都は大坂と強く考えていたらしい。京都は四方に山に囲まれた盆地だが、大坂は海に開いている。江戸は京都から見たら東の京。だが、これには中国に東京があった。長安から見た東の都すなわち洛陽の異名である。もっとも、江戸を東京と改称することは早くから決めていたらしい。江戸イメージを払拭できるからである。都はどこにすべきか。井沢は大久保への投書で決まったと紹介している。その投書の趣旨は①大坂は経済の中心、東京は政治都市。ここを首都にしなければ滅ぶ。よく分かる。②日本列島の中での位置。ど真ん中でバランスがいい。蝦夷地や新政府に抵抗していた奥州列藩にも近いことがあったろう。③首都として整備する財源の問題。幕府が使っていたものを再生すればいいのである。大久保が大坂から東京に傾いた主因は③だろうと井沢は推察しているが、そうであろう。幕府が滅んであちこちの藩邸跡や旗本宅など空き家になった。その空き家に薩長の新政府軍が勝手に住みついた。新政府軍ならまだいい。得体の知れない輩も勝手に住みついたのもあったのである。言い方を変えるなら新たに建設する用は省ける環境があったと言えよう。金のなかった新政府が東京を首都にした事情がよくわかる。
 面白いのはこの投書の主は「前島密」であったこと。前島は今こそ郵便制度の父と呼ばれ、POSTを郵便としたり、切手、はがきという名称も創ったりした郵便の父として著名だが、幕臣であった。幕臣がゆえに大久保との面識があろうはずがなく、投書という手だてしか持ち合わせていなかった。
 余程優秀な人であったろう。
 もとは現在の上越市あたりの豪農の子であったが、父を亡くし母方の叔父の藩医に養われ、江戸で医学を修め蘭学と英語を学んだ。航海術も学び、薩摩藩の洋学校の蘭学講師にもなっている。そして明治。明治2年に明治政府の招聘で民部省・大蔵省に出仕し、翌3年には太政官に郵便制度を建議し渡英もし、今日の郵便制度の形を創ったのである。投書に見るような状況を俯瞰する思考、新しい時代を嗅ぎ何をなすべきかを感じ取り実行に移す行動力。明治にはこうした偉人がきら星のごとく現れた。

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