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Taku's World

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2019年4月

2019/04/30

譲位による令和が始まる

明日5月1日は令和元年5月1日。そう書いて元年が5月1日はやはり変だと感じた。令和元年1月1日。こう書けたらよかったものを。そういえば、新元号の元年に1月1日はないことに気がついた。平成元年は1月8日から。昭和天皇御崩御の昭和64年1月7日の翌日だ。昭和元年は何と12月25日で元年は1週間しかなかったことになる。大正は7月30日。明治は西暦(グレゴリオ暦)1868年10月23日(太陰暦で慶応4年9月8日)からだが、この時は詔書に「改慶應四年爲明治元年」とあったから法的には明治元年1月1日が存在したことになるそうだ(wikipedia)。生前退位とマスコミは報じたが、正確には譲位。世襲を原則とした地位の継承を指すのだそうで、陛下も生前退位なる言葉には衝撃と違和感を覚えられたとか。とまれ、光格天皇( 安永8年11月25日 から文化14年3月22日ー1817年5月7日)以来だから歴史的なことになる。皇室典範は天皇崩御によってのみ皇位継承が行われることを定めていたのを陛下のお言葉を受けて譲位可能に改正された。陛下にとっては、かなり踏み込んだご決断であったことが知れる。もっとも皇室典範原案には譲位制度があったのを高輪会議で伊藤博文が反対して消されていたのが、時代を経た今になって原案に戻したに過ぎないが。長い皇室の歴史では譲位は珍しくはない。御崩御を「穢れ」として忌み嫌ったからとも解説されている。
 それにつけても、譲位ならなぜ1月1日にできなかったのか。恐らく、陛下がお言葉を発しても、それを受け入れるかどうかの議論が長かったためとしか私には映らない。御崩御の月日は特定できないが、譲位ならできたはず。当時の権力者伊藤博文の意向で原案が変わってしまった皇室典範だから、陛下のご意向を大切にすれば、早くに結論は出たはず。そうすれば1月1日が可能であったろうに。何しろ折り込みチラシには令和売り出しがあり福袋まであった。まるで二度目の正月が来たようだ。
 別事だが、田原総一郎は、なぜ女性天皇を認めないかについて、明治天皇は大元帥だった。女性が大元帥になるわけがないから男系と定めた。それを(大元帥になるはずがない)今になっても、なお続けていると断じておられたが、時代の変化は天皇は男系であるべきなのかというメッセージも送っている。実際、推古、皇極、斉明、持統天皇等1770年までに2人の重祚も含めて10代の女性天皇がいらしたのだから。当然と思い込んでいることも元をたぐれば、かなり??があることに気がついた。これも遅かったか。今日で平成が終わるのだから。

2019/04/28

高齢者の免許返上と地方格差

池袋で起きた元高級官僚高齢者の暴走事故が社会問題化している。一つ、加害者を上級国民と呼びなぜ、逮捕されないのかと疑問を投げかける声。二つ、高齢者の免許が返上されないこと。三つ、車の構造、アクセルとブレーキの位置等。私の心にとまった問題は、この三つ。余談もあるが。1は神戸で起きた事故加害者との比較だ。上級国民があるなら下級国民があるので、このような呼称を私は好まない。なぜ逮捕されないのかは、逮捕するにはするだけの要件が必要。彼が東大出の元通産省の高級官僚であり叙勲もいただいている人物であることをクローズアップして事故後を叩いても「次」は生まれない。それに逮捕したからには身柄をつけて検察庁に送って起訴手続きが必要だ。彼は怪我で入院中。身柄拘束して起訴できるかどうかは普通に考えれば分かること。マスコミやネットが悪い。逮捕されなくてもすでに社会的制裁は受けているし、逮捕しなくても起訴はできる。今後のことだが。それより社会的地位が高ければ、それに力む下卑な精神が嫌だね。どうも日本のネット社会にはその傾向がある。私の関心の一番は免許返上についてにある。加害者の落ち度は運転操作より池袋?東京?公共交通機関は充足しているしタクシーだって多い。鄙びたところではない。足が痛ければタクシーを使えばいい。その位の経済的な余裕はあろう。そこに見識の浅さを感じる。昨日、「所さんの学校では教えてくれないそこんトコロ!」あなたはナゼ秘境駅に来たんですか?で大井川鐵道ひらんだ駅が紹介されていたが、3日間、とうとう乗降客ゼロ。近くに集落はあるのに一人として乗降客がいない。聞けば「車の方が早い」と応える。1日5本。まだこれなら多い方だ。バスだって我が家の前の停留所は1時間に1本。結局列車、バスより車を選ぶ。地方へ行けば行くほどである。免許証を手放したくても手放したら生活できないのである。東京や大阪、名古屋の感覚で、この問題を捉えたら間違う。私は退職と同時に車を処分して我が家は一台所有にしたが、理由は三つ。車の維持費は結構嵩む。経済的理由。二つ、公共交通機関を使うことで歩く機会が増える。健康維持。体力増強。三つ、我が家は最寄り駅まで徒歩7分。結局手放せたのは三つ目があったからである。同じ駅まで30分となったらこうはいかない。高齢化で社会は高齢者の免許返上に動いていくだろう。この問題で都市圏と地方の格差はますます広がる。過疎地の足の確保は地方行政の大きな課題になっていくだろう。財政も許さないだろうから。三つの車の構造の論議では、私の関心は、ブレーキペダルやアクセルペダルの位置ではない。憚れるが、時速150㎞とも100㎞とも言われる高速で激突してプリウスはぐちゃぐちゃになったが、加害老人は怪我で済んでいることだ。プリウス凄い!だ。ボルボは徹底した安全対策車で運転手の身を守る車としてシェアを伸ばした。安全のためにボルボに乗る人が結構多かったが、今や日本車は安全対策で世界の最先端を行っているように見受けられた。プリウス凄い!だ。

 

 

全国学力テストはあったのか?

全国学力テストに英語が加わったとマスコミは報じる。??我が国に全国学力テストはあったのか?あれは全国学力・学習状況調査であって、文科省も全国学力テストとは一度も言ってない。学校では学学調査と言っているところだ。マスコミが敢えてテストと言っているところに正体が見える。何しろ限られた紙面を操る新聞社にとって、調査2文字のところを3文字にするのだから、そこに託した意味は大きい。どうしてもテストにしたいのだ。各県別の平均点を出して各県を比較してあそこは高いこちらは低いとやるのだから余り見識がない首長はそれに反応して管下小中学校に当たり散らす。各校は過去問をやらせたり傾向を探ったりして「対策」を施す。それが教育か?慣れてなかったからという教育関係者もいる。慣れてテストで高い点をとれたら教育力があがったのか?この図式、気がつきませんか?入試対策と同じ。傾向と対策という受験雑誌があったが、そのままの図式である。この調査は学習状況と学力をクロスさせて自校の教育の在り方を点検し各校が実態に応じて総合的な教育力を高めるところにある。早寝早起き朝ご飯というキャッチフレーズがあったが、あれはこの学学調査の前身になる教育課程実施状況調査で、基本的生活習慣が高い子どもは学力が高い傾向にあるというところから得たフレーズだった。当然と言えば当然だ。かつての某小学校。宿題もよくやる、学習時間も結構長い。しかしながら二極化傾向が著しく相対的に学力は高くない。なぜだろうと調査を詳細に見てみたら、自尊感情が低いことが判明。さらに家でも学校でも「誉められた」経験が少ないことが分かった。自尊感情が低ければ意欲や関心を阻害する。梶田叡一氏や人権学者、脳科学者等の共通認識だ。このようなことをつまびらかにして指導を改善し教育を向上させていくところに意義があったのである。そもそもが、莫大な予算をかけてこの調査を実施する意義は何か。名前のとおり全国の学習状況や学力を把握するということが第一にあろう。それなら抽出だっていいはずだし、民主党政権の時は抽出だった。だが、この調査のミソは悉皆にある。OECD、PISA調査対策を文科省でやろうといったって不可能。全国の小中学校をその気にさせて、PISA調査に向けて(殆ど気づいていないが)自らを点検してそれを活かした実践をし成果をあげるシステムを創り上げなければ不可である。それは成功したと言っていい。PISA調査における近年のスコアは高いレベルにあるのだから。全国学力調査にはA問題、B問題があるが、これはPISAも同様。とりわけB問題は従来の授業観、学力観の転換に寄与すること大だった。何しろ、学んだことを生活の場で活かせるかどうか、そのリテラシーを調査するのだから、従前の学力観とは全然違う。この調査も個人の属性や学校の基本属性の特徴や学校の財政基盤等も答えることになっているが、このクロッシングが重要で、例えば理科における好き嫌い、男女の違い、無答傾向、解釈する力等、各国の教育・経済やこれからの社会の在り方に示唆に富んだものだからである。その一方で世界で日本はどの位の位置にいるかで一喜一憂しているのも事実である。
さて、マスコミは調査でなくテストにどうしてこだわるのか。その一つは、記者自身の入試学力崇拝があろう。彼ら、それを勝ち上がって今日を築いている。否定すべき装置ではなく否定できない装置なのである。自分の優位性を証する大事な装置なのである。二つは、テストということばのインパクトで、調査よりテストの方がインパクトが有りセンセーショナルでもある。これを使う時点でマスコミは公器としての使命を放棄しているというべきである。三つは、あってほしくないが、予備校、私学、宿などの受験体制の享受者たちの働きかけや圧力またはマスコミ側からの忖度である。
結びに、マスコミが好んで取り上げる平均点は、一人も平均点の子どもはいないのである。一括りにして論じるのはやめよう。子どもはその子なりに伸びる権利はあるし、子どもの健やかな成長を扶けるのが我々社会の人々の使命である。平均点の競争を煽れば学力が向上するというのは幻想である。

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