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Taku's World

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2015年3月

2015/03/29

「負けたぜ」のあとは「勝ったぜ」

 昨日は「負けたぜ」と書いたが、その後のロシア4姉妹とその子どもたちの様子を見ていて、「勝ったぜ」に訂正したい。子どもを注意した第1部までは「負けたぜ」。ところが第2部。子どもたちは、母親の注意を無視して、車内で運動会を始めた。もう母親は出ない。彼女たちは、ウォッカではなく、何と「氷結」を嗜んでいる。その間、子どもたちは行ったり来たり。日本の母親ならいかんせん、叱ったであろうに。しつけは日本の方が上か!?

2015/03/28

負けたぜ

上野東京ラインの開通で、普通車グリーンも混み合うことこの上ない。その普通車グリーンにロシアかフランスかと思われる家族連れが乗ってきた。座席はバラバラ。気の毒だが致し方がない。だが、負けた。この家屋、それぞれを座席に座らせ、東京から国府津に至った。子どもたちは飽きて、声をあげ、動き始めた。無理もない。もう乗車してから1時間半ほど経過している。子どもなら限界だ。その時、若い母親は立ち上がって、子どもの座席に行き、諫めた。こんな後継はしばらく目にしなかった。昨日は、グリーン車内で泣きわめく子どもをその場であやす母親を目にしたばかりだった。かつてはたいていデッキに移動し、そこであやして、戻ってくるのが通常だった。この外人家族は、「日本の今まで」を普通にやっている。負けた!それが私の感想。

2015/03/17

愚が知を裁く

 

人間社会は面白いもので、自分が理解が及ばないものは、否であり、邪であり、罪深いものと位置づける。歴史的にはガリレオ裁判が、その典型であろう。ガリレオは許されない存在だったのである。ガリレオよろしく、大概、真実や正論を述べるものは、排斥の憂き目に遭って、孤独に陥る。場合によっては危害も加えられる。夏目漱石の、「知に働けば角が立つ。情に棹させば流される」だ。何しろ、自分たちの常識以外のものは認めないのだから、話にならない。学べば学ぶほど、極めれば極めるほど、つまりは知を得たものは孤立していく。人間社会には、はみ出すものをそれを許さないという力学が働くようで、真実や正義は許されないのである。だが、それがやがて正論として、地位を獲得していくと、それを排斥した衆はどこかに消えて、いつの間にか宗旨替えをしている。時には、そういう類を、優秀で、柔軟性があり、社会のリーダーというらしい。はみ出したものによってのみイノベーションは可能でありながら、それを認めず、分かろうとせず、笑い話のようではあるが、革新を喜ばない衆が革新を唱えて、主流を描く。不思議なものだ。愚が知を裁く。没落していく社会は、たいてい、そのような図式を持っているようだ。

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2015/03/16

通勤電車の幸せどきと腹立ちどき

今が何と言っても通勤電車の幸せどき。空いています。高校生が乗らないからです。気の短い私は、朝からいつも腹立っています。何しろ、優先席に平然と座り、それも悪戯がない様子で、スマホでじゃれています。お年寄りが乗ってきても平気です。私だって、64歳。彼らの前に立って睨んでいますが、ノー天気で空気が読めていないようです。ああいうのを本物の頭が悪い子というのでしょう。今は、その高校生が乗ってこない。腹も立ちません。何という幸せどきでしょうか。

2015/03/15

選挙の季節に 顔写真恥ずかしいのだが…

 

 地方議員選挙の季節になってきました。県議会や市議会は3月議会がやっと終わったか、終わろうとしている段階。現職組の選挙活動は、それからですね。
議会中は選挙運動を控えましょうと現職は申し合わせをしていると聞きました。
 さて、議員の方々、どうも、私は分からんのです。選挙となれば、選挙区中にご自分の顔写真やら名前やらが貼り出されます。私からすると「恥ずかしい」の一言ですけれど、あのように露出することを候補の人たちはどう思っているんでしょう。  自分の信念や主張のためには、そんなことは些細なことということでしょうか?ひょっとすると社会に責任を負うということは、自分の名前と自分の顔をしっかりだして主張するということなのかと思いますが、そう考えると、それを恥ずかしく思う自分は、社会的な人間としては大したことはない、レベルが低いということでしょうか?

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