学校力を高めるために -新学習指導要領告示を前に-
1 ぼろぼろになった学習指導要領
当初予定から教育基本法の改定でずれ込んではいるが、新学習指導要領の改訂作業が進んでいる。今後、学校教育法、同施行令、同規則の改正と進み、告示はその後ということになろう。
改めて思うのだが、昭和22年に学習指導要領一般編が試案で示されて以来、これほど継子扱いされ袋叩きにあった学習指導要領はなかった。平成10年に告示されてまもなく学力低下批判にあい、平成15年には整形手術まで余儀なくされた。
学習指導要領は申すまでもなく、各学校の教育課程の基準を示す法的な性格を有するものであるから、その改正はそのままに各学校の教育課程の変更につながり、それはそのままに毎時間の授業構想に影響を及ぼすということなのである。何を言っているのか聞き耳を立てることもせず問題視された指導要領が自分の意志を伝え、そのよさを発揮できたかといえば、否である。ぼろぼろになって変形までさせられ、学力低下批判の前に身を低くしていたのがこの10年であった。まるで虐待やいじめられっ子に近い扱いだった。
振り返ってみるとわが国の教育思潮は、学力低下と生徒指導、経験主義と系統主義、教える教育と学ぶ教育、子供中心主義と教材主義等など、その間を行き来して振り子のように揺れ続けてきた。「新しい学力観」に集約される、やや経験主義に足場を置いた平成元年告示の学習指導要領から現行学習指導要領に至る流れに対して完全学校週5日制実施を契機に一挙に対極が巻き返しを図ってきた。それが「ゆとり教育批判」で、そう捉えれば学力低下や知識重視の大合唱が起きてくるのはそう不思議でもない。
何しろ日本の近代学校の基礎をなした明治33年の第3次小学校令の立役者、澤柳政太郎が悲憤のうちに文部省を去ったのも学力低下批判に抗し切れなかったのが要因だった。文部省普通学務局長であった澤柳の残した功績は大きい。科目群を整理して現在の教科体系に整備したり、運動場設置を義務付けたりしたのも、彼の仕事だった。特筆すべきは、授業料を廃止して80%を悠に超える就学率の達成で、これにより「邑に不学なく」を実現させ、日本が近代国家としての地位を獲得。念願だった不平等条約の解消に向かったのだった。
もっと大きく、そして隠れた功績は、授業で学力を身につけさせるのだという方針を打ち出し、進級、卒業のための試験制度を廃止したことだ。二葉亭四迷も批判していた、この試験制度制度の廃止は、やがて各所からの学力低下批判にあって、文部省は全国学力テストの実施に踏み切り、テスト対策の波が地方に押し寄せ、激しい点取り競争に陥っていくのである。これは明治の話である。現在と酷似していないか。
2 現行学習指導要領 周知と理解の不足
現行学習指導要領も批判の矢を浴びたまま、消えようとしているが、このような事態を陥ったのにはいくつかの要因があった。
ひとつは、学習指導要領の構造の理解と周知の不足だ。
現行学習指導要領策定の過程に影響を及ぼしたことに完全学校週5日制があった。およそ10年かけて実施に踏み切った完全学校週5日制を、生涯学習体系下の学校教育のあり方として描くことで理論的に取り込んだ。よき学び手をはぐくみ週5日の学びで週7日を豊かに生きることのできる子供をはぐくむ教育を志向したということだ。
この立案過程で特に意識されたことは二つあったと私は思っている。
一つは、国際的な諸調査などから見えたわが国の子供たちの学力構造だ。全般的には上位にあっても、思考・判断・表現では中位以下、学習意欲は韓国と最下位を争っていた。加えて成人の科学リテラシーは先進国最下位。そこに見えてくるのは、知識中心、説明型の授業で、最大瞬間学力が吹くようにするだけの知識偏重、解答型学力の定着をねらった授業の姿だ。今次学習指導要領改訂の方針の一つである「自ら学び自ら考える力」の育成に、このような子供たちの学力構造を被せてみれば、何を変え何を育てるべきか、そして授業をどうのように変えていかなければならないかが鮮明になってくるであろう。
二つは時代認識で、現在の子供たちが生きていく時代は変化の激しい不透明な時代で、どのような状況に置かれても、課題を解決しつつ、よりよく生きていく力が必要とされるという認識だ。
学校ですべてを教えられるわけではない。教育課程の時間は有限であって、その時間内にこのような、時代に即応できる資質や能力をいかにはぐくんでいくのか。それが課題だった。
学校週5日制で授業時数が減少する中、授業ですべてを教えることはできない。
それで、「余りに多くのことを教えることなかれ」というホワイトヘッドのことばを引用して、教育内容の「厳選」「精選」に取り組んだが、それは単なる削減を意味していたのではなかった。「厳選」の手法は他教科、学年等における重複の解消、上級学校への移行、重点化等々、それに削除も加わる。そのことの周知も理解も足りなかった。
小学校社会科6年の歴史では、「取り上げる内容はアからクにとどめ」だ。ならば、その他の歴史的内容は不要かと言えばそうではない。平成9年11月のいわゆる中間まとめ」には、次のような記述が見える。
「b 歴史的分野については、事項を精選して重点化を図り、例えば、古代、中世、近世、近現代のように時代区分を大きくとって内容を再構成し、我が国の歴史の大きな流れを世界の歴史を背景に理解するようにするとともに、歴史についての学び方や調べ方を身に付け、多面的な見方ができるようにする。また、先人が築いてきた文化と伝統を尊重する態度を養い、我が国の歴史に対する理解と愛情を深めるようにする。」
要するに、「精選して重点化」された歴史的事項に迫る過程で「学び方」や「調べ方」を身につけ、「多面的な見方」ができるようにする、ということだ。そうすることで、我が国の歴史に対する理解と愛情を深める(自分知)をはぐくむという構造を有しているのである。
「台形を扱わない」という批判もなされたが、これも同じだ。
学習指導要領解説「算数編」では、配慮事項として、既習の考えなどを基に面積の求め方を考えたり公式をつくったりする過程を重視することが大切であるとされている。「既習の」とは、長方形や正方形の面積の求め方だ。さらに「…三角形や平行四辺形以外の様々な図形についても、児童自ら工夫して面積を求めることができるようになると考えられる」。扱わないのではないのである。
長方形や正方形の面積の求め方を基に三角形や平行四辺形の面積を求める。そこで培われた論理的な考え方や算数的思考で、台形等の面積も児童自らが求められるようにしていくことを内容としているのである。ここに算数科としての「生きる力」育成の具体が込められている。
社会科では学んだことを基により深く詳しく学べる懐が、算数科では、「他の図形についても」学べる単元構想が、また岐阜県川島小が実践していたように学校での学びと学校図書館や町の図書館とのネットワークを活かした学習活動の展開も必要だった。
厳選された内容を理解する過程で、方法知、自分知を身につけていくこと。厳選された内容が基礎・基本として確実に身に付いているならば、それを活用し、子ども自らが新たなことに向かっていき、知識も膨らめられる。これが「自ら学び自ら考える」の具体だった。端的に言えば応用の利く学力の育成を教育課程上に描いたのであった。
教科内容の厳選は単なる削減ではない。内容知、方法知、自分知をはぐくむことで、それがその後の学習や生活の核となって、学習が広がり深まっていくこと。そのような構造を描いたのであった。
そのことが同時に「今どきの小中学生 暗記や計算得意だが思考・表現は苦手」(毎日新聞平成9年9月30日付)と批判され続けた我が国の子供たちの学力構造を変える方策でもあったのである。
だから身につけた教科知を核にしてそれを、より深く、より詳しくする場として選択教科は重要だったし、「総合」はさらに多様な教科知を駆使して、現実社会の中に学びの対象を見つけ、それを追究して解決を図り、さらに課題を発展させるという、主体的な学びを体験する時間、つまりは「生きる力」を発露させる場として重要だった。さらに構造としては休日もまた知を拡充していく時間として期待されていたのである。
だから、時折見させていただく授業では、「総合」や「選択」を重視し、その時間を充実させている学校は、概して必修教科も質の高い問題解決型学習が行われており、必修教科で子どもが学んでいないような授業が多く見られる学校の「総合」や「選択」は地の底を這うようなレベルで、両者は見事なまでの相関を描いているのである。
以上述べてきたような学習指導要領が有している構造がどれ程周知され理解されてきたのか。本気になって「生きる力」をはぐくもうとしてきたのか。私は関係者に問いたいのである。
ゆとり教育批判などは論理的に考えれば、「ゆとりのない教育」待望論で、そう言われてしまえば、誰もゆとり教育批判などできないはずだった。生きる力の育成、その後の生活や学習のもととなるものとしての基礎・基本の重視、学んだことを活かすという意味での「自ら学び自ら考える」力、そして、そのためのゆとり。これらは論理的につながっており、「生きる力」をはぐくむことを継承すると言いつつ「ゆとり教育」を批判する論理など成り立ちようがないのである。「ゆとり」とは心のゆとり、考えるゆとり、時間のゆとりであるということは第15期中教審第1次答申に明記された定義であったはずだ。このことを関係した識者はもっともっと主張すべきだったのである。
繰り返す。ゆとりのない教育にすべきなのか。生涯学習の基礎を培う場としての学校を描くなら、学んだ力を活かす場が、学校の内・外に整備されている必要があった。それがゆとりの場であったし、その整備は文科省から地教委に至る教育行政の責任だった。このことについては余りに意識が薄く無責任で不徹底だったと思うのである。
3 憂慮すべき論理的思考力の欠如
‘03年の東大前期試験の数学の問題は「円周率が 3.05 より大きいことを証明せよ」だったという。この問題に面食らった受験生の一人は、しばし熟考して、半径1の円の面積は1×1×πで求められる。だから、この円に内接する正24角形を描いて、その面積が3.05より大きいことを示して証明したと「教師力」(朝日文庫)は紹介している。東大は受験生の何を見ようとしたか。もうお分かりであろうと思う。論理的思考力を問うこの問題に多くの受験生は面食らったと紹介しているが、それは、論理的思考力を耕す教育が行われておらず、受験テクニックに流れていく教育の結果ではなかったのか。
現在審議が行われている中教審教育課程部会では、PISA型学力とも言われている、このような論理的思考力の育成が、ますます重要視されてこよう。
しかし、この力が弱い。弱いのは当然で、平成10年頃から吹き荒れた学力低下論は、日本の子供たちの、学習意欲、思考、判断、表現力の向上をねらった学習指導要領に逆風を吹かせ、これを骨抜きにし、知識伝授型、機械的反復型、受験対応型の授業に拍車をかけ、数値的学力に異常なまでの傾斜をもたらせていったのである。学習意欲、思考、判断、表現力などは、その子の内側にある内面的な資質や能力のことで数値化することは不可能だ。不可能であるばかりでなく、学習意欲も思考力も判断力も表現力もそこにスポットをあてただけのことで、それだけを切り離すことができるものではない。
「学び」というのは総合的であり、主体的なものであるはずだ。言い方を換えれば、主体的でない学びなどはあり得ないということなのである。
子どもが学ばなければ学力は育たない。余りに自明の理が忘れられていなかったか。
そのことは、授業の姿で語ることもできる。PISA調査で余り着目されていないもう一つの調査結果がある。
授業において、毎回「自分の意見を述べさせる」割合。アメリカで40.7%、フィンランドで39.0%、日本では30.6%。「全くない」は、アメリカ7.2%、フィンランド4.0%、日本10.1%。我が国では「学びの充実」が唱われ、問題解決型学習の重視が学習指導要領にも記述されているが、他の国に比べて、子どもたちに自分の意見を述べさせるような授業は少なく、どこかの高校教頭が熱望するような教師説明型の授業が多いということだ。教師が説明しても、それが子どもに届き、思考、判断、表現の中に位置付き、未履修のことにも「既習・既存」を駆使して解決できるようでなくては「学力」になったとは言えないのである。
東大受験生が、このような問題に面食らった背景には、「学び」の本質を理解していない指導者のもとに行われている、かような授業実態があったと推察できるのである。
前号で、吉冨学校教育官の紹介された広島県長江小の実践を紹介したが、知識重視型学力に傾斜していく風潮の中で、同小はそれとは逆に道徳性を重視し、思考過程を豊かにする実践で成果を上げていた。道徳性も思考過程も内面のことであって数値に表れにくい要素だが、結果的に同小は数値に表れる学力でも、驚くほど高い結果を挙げている。
問題解決型学習を志向しながら、それは手だて。ねらいは「人としての育ち」。だからこそ、道徳性が重要だった。学習指導要領に示された内容で欠いていいものは一つもない。なぜなら子供たちが、21世紀を生きていく上での資質として「生きる力」をはぐくむために描かれたカリキュラムであるからだ。
主体性とは自己確立のことで、そうだとすれば、同小の研究の柱である「まね」の段階も道徳性の発達も学力もすべて一体で、かかわりを重視した総合的な指導があってはじめて数値的学力も結果となって表れてくるのである。
それにしても、吹き荒れる学力大合唱の中で見事なまでに哲学をもった勇気ある主張ではないか。数値的学力もこうすれば上がるのですよという確信に基づいた教育実践とその主張だ。
教育課程も授業もすべての教育活動が子どもの「人としての育ち」に向かう。そこに長江小が発している「学校は何のためにあるのか」という強烈な問いと答えを私は感じるのである。
私は、これを「知行合一」と表現したが、「知」とは理論であり、「行」とは実践のことである。知行合一とは、両者が矛盾なく一体化することだ。
4 誇り高き存在に
学校教育には大きく三つの「界」がかかわっている。一つは、文科省を頂点として地教委に至る教育行政の「界」だ。二つは教育学会だ。そして学校現場だ。教育行政は、多くは法令や通知という形で社会の要請を学校に向けて学校の形に影響を与える。教育学会は申すまでもなく学論を示し教育科学の立場から理論を提供している。学校は社会の要請を受け、理論を背景に、目の前にいる子供たちに質の高い教育実践を提供する。この三者が県(あがた)を組んで学校教育界は成り立っている。しかも、それらはバラバラではなく、学習指導要領がいい例で教育科学を機能させ、学校週5日制のように政策的な行政的課題を加味しながら学校の教育実践の基になるものを創っている。しかしながら、どのように教育行政が縦の権力を行使しようが、教育学会がどんなものを申そうが、直接子どもを指導することはできない。それができるのは学校だけだ。どのような理論を構築しようが、学校においては授業の段階にまでくだかれなくては実を帯びない。
そういう意味では、教育行政からの要求を測り、学論を吟味して学会に負けない、その「学校ならでは」の理論を有した実践をしなくてはならない。それが学校の学校たる所以であって、学者の理論検証の場にしてはならないのである。
学習指導要領は行政的課題と教育科学が集約された、その国の教育科学の結晶のようなものだ。しかし、そこに示された内容が周知されなくては学校が実践化することは難しい。学校もまた理解しようと努めなくては、その実践化を図ることは困難だ。また、子どもの実態に即して理と理の間を埋めた創意ある教育課程創造も不可能だ。
学力低下論以来の教育論議は、教育科学の粋を咀嚼せず、愚かな指導層がこころざしを踏みつぶしてきたような側面を否めない。教育は解答できればいいというものではないのである。「それいけどんどん」で、授業時間の増を叫んで、「時間的なゆとり」を認めない主張。思考力重視を唱いながら「考えるゆとり」を否定。学んだことを活かす場である「選択」や「総合」の軽視と機械的反復。心の教育の重要性を叫びながら、ゆとり教育批判で「心のゆとり」も消していく。ゆとり教育批判が実はかような論理矛盾を呈していることに目を背けながら「世論」を誘導していく真意は何かと疑いたくなる。
21世紀を展望した時、「生きる力」の育成が喫緊の課題ではなかったのか?どのように功成し遂げた各界の才を集めても、教育に期待することや社会の展望は語れても、優れた学校教育論を期待するのは無理なことだ。なぜなら学校教育は教育科学の粋を実践化する場所だからだ。誰でも論じられるようなものではないのである。
学校もまた同じで、栃木の鹿沼東中や広島県長江小のように理念を持ち教育科学を働かせ、子どもの成長を促すという大きな方向性の中に、学力も指導も位置付かせなくては、明治以来繰り返してきた振り子の中に自らを放り込むようなものなのである。
学校は、人を育てる公的な存在として自らを誇り高き位置に置けるようにしなくてはいけないのだ。
そして、そのために私ども教育行政にたずさわるものが何をしなければいけないのか、何回も何回も反芻して見る必要があろう。
自らの保身のために志を売ってはいけないのだ。
| 固定リンク
トラックバック
この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/75301/14806250
この記事へのトラックバック一覧です: 学校力を高めるために -新学習指導要領告示を前に-:

コメント