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Taku's World

激しい変化の中に生きている

 5月1・2日とお休みをいただいて9連休を作りました。職場の若い衆が言います。もう退職した人ですから、自由に休めるとき休んでください…現役時代は連休などはないに等しかったのに、そうか、もう組織外の人か!自分の中ではずっと仕事が続いていて、現役の組織人のつもりが、他から見るともう外の人。組織で重要だと思っているのは自分だけで、組織から見ると所詮「嘱託」。
 時は動いている、私という存在も時の流れの中で存在自体が変化していたのでした。
 4月28日に始まったGWで、私は、箱根越えに躊躇してしばらく止まっていたお伊勢帰りを再開たのでした。三島から2日かけて箱根越えして(かつては1日で踏破していたのですが…)小田原に。それから日を変えて二宮まで歩き、さらに二宮から平塚、そして昨日は平塚から戸塚まで歩きました。一昨年度、始めたお伊勢帰りも日本橋まであとわずか。3日ほど歩けばゴールです。
 月日は流れています。毎年同じなどありません。箱根を越えて、小田原に至って、小田原城の藤を見に行ったのですけれど、異変としか言いようがありませんでした。5月のGWでは例年満開になる藤の古木が、つぼみにちょっと花開いたくらいの二部咲き程度です。例年とは違う!20120505dasi
 北海道から帰った翌日の5月5日。再び小田原から日本橋を目指して歩こうと小田原に降り立ったら、何やらお囃子が聞こえてきます。小田原は5月3日の20120505mikosi_3北条5代祭りに引き続き松原神社の例大祭になっていたのでした。お恥ずかしながらで、小田原にあのような勇壮なお祭りがなされていることなど知りませんでした。詳しくはこちらのページをご覧下さい。本社御輿は特に見事です。
 世の中は動いていて、どこでも何かが起きているのですけれど、その動きに気づいてはいません。その動きに気づいたときに「発見」があるのです。なかったものが現れたのではありません。
 昨日行った戸塚もそうでした。戸塚駅はいつからあんなに変わったのでしょう?旧東海道往復の中途で、お伊勢参りの中途で、戸塚駅での乗降はもちろん、駅前通過もありました。しかし、あんな駅ビルはなかったはずですが…。でも、毎日少しずつ工事が行われ、今や当然のごとくそこに鎮座しておられるのですけれど、久しぶりに出現した私には驚きだったのです。
 茅ヶ崎の小出川脇、神奈川県衛生研究所前には旧相模川橋脚を復元したモニュメントのある公園がありました。大正時代の地震で飛び出してきた旧相模川の橋脚だそうですけれど、かつての東海道歩きの時は、工場の敷地横の未整備の公園だったり、工事中だったりで、このような姿を見る機会はありませんでした。この公園横の工場だって今やニトリです。
 改めて、地球はとてつもないスピードで自転・公転しています。時間も過ぎ去っていきます。その時間とともに私も齢を重ねていますし、この地にとどまること知らずです。昨日の私は今日の私ではありません。目にしてる光景も人も昨日と同じではありません。明日の眼前の光景も明日はまた違っているでしょう。私という存在は、人間というものは何という一瞬の生き物でしょうか。
 

2012/03/24

このすばらしい日本人

 未だに顛末が不明ですけれど、21日の朝、出勤の支度をしていたら愛用のペンケースが見つかりません。皮のケースの中身は万年筆2本。太めのパイロットのカスタム823にセーラープロフィット21で、2本ともかなり高級。さらにパイロットシャープペン、カスタム74に同じくグランセ。双方で1万円ほどするものです。万年筆タイプのサインペンも入っていました。それが見つからないのですから、ペンケースがない、ないと大騒ぎです。
 前日に私は沼津発7:00の東京行き5号車3D席で品川まで乗車していました。帰りも東京発16:22に沼津行きグリーン車6A席で帰ってきています。行きの電車の中で、このペンケースを開けて中から水性ボールペンを出したのは覚えています。しかしながら、品川で降りるときに座席は確認して、総武・横須賀線に乗り換えています。忘れた覚えが全くありません。どこで紛失したのでしょう。最悪はリュックの中から落ちたのが気づかなかった場合です。
 21日、帰路ひょっとすると帰りの車輌?と思って沼津駅の改札で確かめましたけれど「ありません」という返事。それに車輌はJR東日本のものですので、そちらにお訊ね下さいと電話番号を案内されました。帰宅し、ただちに案内先に確認電話を入れましたが、「ありません」とのこと。すっかりしょげ返っていました。
 翌日、ふと思い出して、飯田橋にある警視庁遺失物センターに電話を入れましたが、電話ガイドでは分かりません。ただインターネットに検索サイトがあることを知って、アクセスしたら筆入れの遺失物があることだけは分かりました。それで、再度前日案内されたJRの案内に電話を入れてみたのでした。すると、何とそれらしきものがあるという回答です。しかも、それは私が乗車した東海道線、沼津発7:00のグリーン車からの拾得であることも分かりました。さらに担当官は東京駅八重洲口の遺失物センターに連絡をとってくれ、二度三度と電話をくれて確かに私が紛失したものであることを確認してくれたのでした。
 すごい!
 私自身がどこで落としたのかも覚知していません。恐らく、私が車内で使用した後、空席だった隣席にリュックを置きましたので、リュックに入れたつもりが座席に置いて背もたれとの間に紛れたのだろうと推測しました。
 東京行きの東海道線は品川から新橋を経て終点東京まで行きます。そこで下りの電車に早変わりです。わずかな時間にそのためのシートチェンジが行われます。その短い作業の際に係員が見つけたのでしょう。それが、遺失物センターまできちんと届くのです。そこがすばらしい!何という日本人のすばらしさ!
 ペンケースの中身は5万円を下りません。氏名を彫り込んであるパイロット823は別としてセーラーもシャープ2本も、牛革製のなめし革のペンケースも売り払ってしまえば、それなりに値が付くはずです。しかしながら、それを我がものにせず、きちんと届ける、届けた先は問い合わせに懇切丁寧に対応する、日本人というのは何とすばらしいことか!日本の治安のよさは、Kobanの存在でもなく、防犯体制でもなく、一人一人の清い生き方の中にあるような気がしてなりません。
 つい先日訪れたベトナムではガイドからリュックは前に背負ってください、モバイルはしまっておいて、一人歩きはしない、眼鏡も注意とか、持ち物の安全をこと細かに指示されました。15年ほど前に出張したブラッセルでは、空港のロビーでベンチに座り、首からかけていたカメラを外し、横に置いて汗を拭って、ふと横を見たらもうカメラが無くなっていました。
 何という違い! 本当にすごい!

2012/03/11

退職記念旅行でベトナムへ

 定番の退職記念旅行でした。いささか定番過ぎて気恥ずかしさを感じながら出発しました。私どもの学生時代はベトナム反戦運動、成田闘争等々学生運動の激しい時代でした。何しろ私の大学受験年は学生運動で東大入試が中止。東京教育大もなし。安田講堂が占拠されたり、浅間山荘事件があったりで…。今になって思うと我が国を託したいような優れた人材も失われましたし、結局何を理想にしていたのか、その後の歴史、現代を見つめると理解できません。ソ連、中国、そして訪れたベトナム。あれが理想だったのでしょうか?私のように貧で育ち、貧を背中に大学の門をくぐったものから見ると、うさんくささを感じましたし、社会への甘えがあるように思えてなりませんでした。受験できるだけの幸せを感じなかったのでしょう。ただ、あの時代のあの学生たちのエネルギーは、現代の日本の若者にあってほしい、社会的関心度の高さですし、行動力だと思います。自分の内側に感じていた矛盾を思いっきり吐いていたように思います。ベトナム。海外はまずは首都から見るべきというのが私の方針で、ベトナムと言えばハノイです。世界遺産ハロン湾を見たかったこともありました。新興国としてのベトナムの活力を感じたかったこともありましたが、私ども世代が通り過ぎてきた時代にベトナムは避けて通れない存在になっているように感じます。アメリカと激しく戦い、その前は独立戦争でフランスと戦い、歴史的には中国と戦いを繰り返し、今なお南シナ海を巡って中国と争い、反中国キャンペーンを繰り広げているベトナム…

ガイドにはJTBの現地職員、アンさんがついてくれました。アンさんは父をアメリカとの戦争で失い(拷問で頭に電気を通されて死亡)、それで国の補助で留学が認められ、福井と岡崎で勉強したとか。多少たどたどしい日本語で私ども2人をガイドしてくれました。(何と幸運!2人しかツアー客がいなかった)。その説明から感じたままを書きます。

1 賄賂が横行している国で、病院でも賄賂、交通事故でも賄賂、裁判でも賄賂だとアンさんは嘆いていました。そして、それ故に貧富の差が激しい。月平均の収入は1万3千円くらい。私どもが案内されたランチの高級レストランでブランド品に身を包み、ベンツで消えた男女の若者4名がいましたが、彼らは、ランチ代に日本円にして1万なにがしかの支払いをしているはずです。月収分をあっという間に使う。どうやら事業家と高級官僚の子どもたちのようでした。

2 水事情が悪く、絶対に提供されたボトルの水しか飲んではいけないこと。氷もだめ、水を使う食品、たとえば飴や菓子。保証されたもの以外は止めること。空気も汚れていて、街中埃だらけです。ベトナム行きにはマスクは必需です。ピカピカの車なんて見当たりません。埃に覆われています。当然のごとく水が濁ります。

3 治安が悪く、スリや盗みが横行。リュックは体の前に。背中に背負わない。一人歩きはしない。アンさん自身も、バックをナイフで切られて金品を奪われるという被害にあっているとか携帯電話は特に狙われるということです。ホテルで15万円ほど盗まれた事件があったばかりだそうです。

4 保険に入っている国民は約20%。医療費が高いのと医者への賄賂でお金がかかり、病院にはいけません。病院のベッドも不足していて、一つのベッドに3人の患者ということも珍しくないのだそうです。救急車を頼むと、また賄賂がいてお金がかかる、それでけが人を路上にほったらかし。帰路、空港への途上で交通事故で血を流して倒れている人がいて、私どもの車も救助を求められましたが、時間がなくて通過。

5 交通事情は悪く、信号が殆どありません。その道路は多数のバイクが占め、車はバイクの間を縫うように走っています。横断歩道もありません。歩いて渡ります。走ると事故になるそうで、ゆっくり歩いて渡ります。でも止まってくれるわけではありません。人を躱していくのです。飲酒運転可。MobilePhoneをかけながらもOK。バイクは4人まで同乗可能。ただし、二輪・四輪ともに高額。中国製バイクは5万円。Hondaは20万円。イタリア製は70万円。車は関税が高く3倍。日本で200万円の車は600万円ということです。月収1万3千円くらいですから所有するのは夢の又夢です。車検はありません。路上で故障して止まってしまう車が実に多いと感じました。これも渋滞の原因です。

6 路上を占めている車はヒュンダイが大部分。4輪、マイクロバス、トラック、バス、殆どがヒュンダイとKIAです。ともに韓国の現代自動車のグループです。市内にあるショールームもヒュンダイ。工場もヒュンダイ。日本車はトヨタがちらほら。日産は1台見ました。その他三菱にスバルを1台ずつ。トヨタのショールームはハロン湾で見ました。すっかり出遅れています。韓国と中国の進出が激しく、TPPを中国とは結んでいますが、ベトナムは防戦しきりだそうです。ただし、反中国キャンペーンには激しいものがあります。領土問題です。尖閣諸島と同じ手口で、中国は自国の領土と主張し、後は執拗な嫌がらせと脅しです。それでベトナムの英雄は中国と戦った人たちで、私たちが訪れたお寺も中国と戦った王様を祭っていました。

7 今なおベトナム戦争の影を引きずっています。枯れ葉剤で、手足が奇形。その子も奇形。そいう人たちが路上で援助を求めています。国営の雑貨店を訪れましたが、刺繍に携わっている人たちは殆どがアメリカとの戦争被害に今なお苦しむ人たちです。ちなみに観光客の欧米人はフランス人が多くロシア人がちらほらた。アメリカ人は殆ど見かけませんでした。ベトナムには来られないのかもしれませんね。

 ついでながら、中韓の観光客の傍若無人ぶりには言葉を失いました。ホテルで、CLOSEされているプールに…霧雨も降り寒いですよ…早朝から泳いでいる中国人。朝食のビュッヘ。座席に案内されて、食をとりに座席を離れたところへ、案内も受けず勝手に座り、ビュッヘの料理を抱え込んでいる中国人。雲龍の自然保護区でもあの静寂さをうち破るようなけたたましい嬌声をあげている韓国人。いやはやでした。

8 ハノイは暑いか?いや10度ほどでした。ガイドさんはコートを着ていました。ホーチーミン市は30度を超えていたとか。それでも、二期作が可能で丁度田植えの季節でした。水牛が農作しているのも見えました。米はタイ米で美味しくありません。その分チャーハンは美味しくベトナムチャーハンは有名です。

9 不思議と漢字文化がありません。すべてアルファベットです。フランスの植民地だったからでしょうか?反中国の歴史を背負っているからでしょうか?でも、70%が仏教徒だそうで、お経は漢字です。

10 大学進学率は60%程。これには驚きました。しかし職場がない、働き場所がないそうです。

11 犬や猫がいない…??アンさんに伺ったら、犬は犬肉の高級レストランがあって食す。だから、犬を外で飼っていると連れ去られて売られてしまう。一頭だいたい日本円で2万円程。犬は一頭5㎏だから、㎏4千円で牛肉より高いとか。

12 街並みは3階建てが多く、狭い土地に高くという感じです。3階にテラスがあります。そこが物干しスペースになっています。

13 日本人は金持ちと思われているようで、バッチャンの陶芸村では歓迎の日本語表示がありましたが、いざ商談となると$1=\85と言われ、買うのをやめるといったら¥83にしてきました。それでも吹っかけです。高くても買うという印象があるようです。ツアーで入るレストランはハノイでも高級レストランばかりです。そう思われても仕方がないですね。一般の人は路上で食しています。

2012/02/07

退職後のボランティア

  2月5日(日)は地区一斉の海岸清掃でした。狩野川河口から西へ田子の浦港に至る、およそ10㎞に及ぶ海岸線は、千本松原と呼ばれ、日本100景、日本の白砂青松100選にも選ばれている名勝です。しかしながら、かつては藪に囲まれてうっそうとしていた千本松原も海岸線に防潮堤が築かれて以来、松枯れがおびただしく伐採せざるを得ない松も少なくない状況です。この松林の惨状を憂い、松林保全のためにボランティアに勤しんでおられる方々が数多くいらっしゃいます。
 千本松原は波打ち際から防潮堤までは100㍍近い砂利浜を従えていますが、台風時等の高波は防潮堤近くまで押し寄せてこの砂利浜にゴミを置いていきます。富士川(時として狩野川の物も)や近くの放水路の漂流物が流れ着くのですが、人間はこれ程ゴミを出しているのかと思うくらい、ビニールゴミにプラ容器、流木、紙類など、生活廃棄物が海岸線を覆っています。それを住民総出で拾うのが恒例の浜清掃です。何しろ広い。その広い砂利浜のゴミを拾うとなるとその広さが途方もなく感じられて、夏場などは勘弁して下さいと申し上げたいくらいです。
 ところが、どういうわけか今回の浜清掃では拾うべきゴミが見つかりません。ゴミ拾いならぬゴミ探しのような供役でした。
   聞くところによれば、30代の青年がボランティアでこの海岸線の美化活動に取り組まれているとか。(当然敬語です)「富士山が見える海岸がごみだらけでは」というのが、この名前も知らぬ青年の動機のようですが、当然無給です。頭が下がります。頭が下がると同時に青年をこのようなボランティアに駆り立てているのは何か?と考えざるをえません。

  阪神淡路大震災ではボランティア参加者数は1日2万人超。3か月で延べ117万人とも言われました。平成7年がボランティア元年と言われるゆえんです。余談めきますが、阪神淡路大震災と東日本大震災との111日経過時点での双方のボランティア数を比較した珍しい統計があります。阪神淡路では総計1,193,700人、1日平均10,756人。東日本大震災は499,300人で1日あたり4,498人となっていて、阪神淡路大震災に比すと3.11は桁外れにボランティア数が少なくなっています。そうは言っても週末に参加者数が一挙に増える傾向があるのですから決してボランティア熱が冷めたわけではないでしょう。今なお続く余震。福島原発の放射能の影響。近隣から支援にいくどころか被害が広大で甚大すぎてボランティアの入りようがないというのが実情でしょう。ボランティア熱の高まりに陰りなし、こう申し上げていいと思います。
 千本松原の保全活動にも地元の有志が複数の団体を作ってたずさわっていますが、枯れ松伐採、下刈り、ゴミ拾い等々、機材を持ち込み黙々と作業に打ち込んでいます。もちろん無償のボランティアです。
 このようなボランティア活動に現役を終えた退職組が取り組むのは心情的には共感を覚えます。齢を重ねるほどに価値観の重きは「心」に移っていきます。一線を退き、職縁社会とも遠くなっていくと社会有為な存在として自分の生き場所を見つけはじめます。ボランティアを通した仲間とのつながりもボランティアに走らせる一つの要因でしょう。そう分析すると人間というのは本当に社会的な生き物であり心をよすがにする生き物だと思わざるをえません。
 青少年犯罪の要因の第1位は1960年代までは経済的理由。1970年代以降は存在感の喪失だそうです。子どもたちに潜む寂寥感、孤独感は、その後の人生に深く影を落とします。必死になって自分のより所を求めて生きる。この青年を浜清掃に駆り立てている背後にはそんな来し方がもたらす存在感の喪失があるのではないか。私はそんな風に感じ取っています。退職組のボランティアも同じ心持ちです。
 私にしても現役を退いた今は現役と変わらぬ職務といっても日給にして約6000円。時給にすれば手取り730円程です。現役時代は1日約2万円超の給与。講演しても講演料なしですから時給の730円がいわば講演料です。それでも働いています。収入に拘泥なし。考えてみれば仕事というよりボランティアと申し上げた方がいいでしょう。加えて地域の役職依頼もついて回るのですから、61歳はやはり現役とは違います。
 日本人は不思議です。45歳ナイスリタイアが理想、その後は貯めたお金で世界を回りたいとナイスブリティッシュは夢を語っていました。ずいぶんと感覚が違います。必死に世間に縁(よすが)を求めて生きていこうとするのが日本人で、それは欧米人の理解を超えているでしょう。その欧米人の価値観にも時代の変化が生まれています。

 Muenchen で出会ったecoproject、MobilSpiel の若き活動家、Steffi Vreuzinger は、こう語りました。

 「人々の関心は満足した生活を求めることから心の問題に移ってきている。豊かさとは、精神的な充足感に包まれていることだ。」

 分かりますなあ。家に居たって退職組は殆ど爺・婆の2人ですから。でも、30代青年とリタイア組とが同じような心境になっているところに世相があると思いますがいかがでしょうか?

追 若者のボランティア参加は大歓迎です。でも気になります。JICA青年海外協力隊への参加が激減しているのだそうです。どうしてでしょう?

2012/01/29

定年退職を見つめて 老いとは何か

 定年退職とは何か。老いとは何かを考え始めています。
 昨年3月末に退職して何が変わったかと言えば、収入がダイエットした位です。私の場合はありがたいことに?3月31日をもって定年退職。翌日の4月1日から同業職種に臨時嘱託として勤務を始めました。違いと言えば、徒歩5分だった職場がJR通勤に変わって、かつて勤めていた行政職に変わっただけで、まるで転勤のような感覚でした。ですから生活が大きく変わるというようなこともありませんでした。これがくせ者です。大きな変化がありませんから今までの生活を継続します。でも、収入はダイエットしてます。ダイエットはリバウンドの危険性がいつも伴っていますけれど、こと収入に限ってはダイエットのリバウンドなど望んでもありません。なのにです。相変わらず酒を飲み、相変わらず宴会に顔を出しています。退職したからといってビールが発泡酒や第三のビールに変わったわけではありません。むしろ再び銘柄を選んでワインをたしなみ始めた分だけ我が家の家計は大きくなっています。なんたること!
 気がついている次なる変化は、ピカピカの1年生への変身です。現職の最後は管理職で組織の長でした。ですから、あいさつ・講話がついて回って、傍目に見ればふんぞり返っていた部類です。それが、退職して待っていたのは退職○○会に入会し、新人を演じることでした。現職中、どんなポジションに居たかなど関係ありません。丁度、小学校6年生が最上級生で主役だったのが、中学校に入学して新入生になるのと同じです。明日も歴代の役職の会がありますが、最長老は91歳。この方はいかんせん欠席ですけれど、出席者の中には82歳、76歳がいらっしゃいます。それから見れば60歳などひよこです。60歳を境に新たな人生が始まっています。第三の人生、こう申し上げてもいいと思います。勝負は何か?それは仲間の多さと長生きです。ついでに毒舌ぽく加えれば「したかさ」です。堺屋太一氏が地縁・血縁に変わって職縁社会なる造語を造られましたけれど、言い得て妙です。いつのまにやら60歳を境に職を退いたはずなのに、職にあったことを縁とする社会が延々と(そうなら目出度いのですけれど)続いて、それにすがって生きています。そして、この社会も不思議なもので、入会し?よろしくお願いします等と挨拶します。これから面倒を見て下さい、そのためにお願いします、でしょうけれど、歳を重ねれば重ねる程、お願いされますの域になっていくはずです。それでもなお、年齢によるピラミッドを形成していくところに人間社会のおもしろさがあります。
 60歳等というのは今や老域ではありません。かつては後期高齢者という言葉が高齢者のひんしゅくを買いましたけれど、高齢者であることは間違いないでしょう。でも、年齢を重ねた事実と若さとは違っているように思います。同い年かと思わせるような方々は一杯いらっしゃいます。朝ズバッのみのもんたは67歳。TVタックルでお馴染みの三宅久之は82歳。風貌で見れば、白髪ぼかしのみのもんたに毛がない三宅久之というところでしょうが、どうしてあのように溌剌としているのでしょう。とても老域に入っているとは申せません。ついでながら西川きよし・ヘレン夫妻は65歳。田嶋 陽子、萩本 欽一、 石坂 浩二、 三田 佳子、渡 哲也らは何と70歳。あの名女優八千草薫に至っては81歳。もう化け物ですね。若さというのは心持ちと体力が演じるものだろうと思います。
 車内、運転席の家内は「あーここはよく来たよ」「ここは子どもが小さい頃」とか思い出話ばかりです。思い出は過去のことです。社会は変化しています。その社会を前どりするようにアグレッシブに生きていかなくては「若さ」は保てないでしょう。
 IBMの北城恪太郞氏がおもしろいことを言いました。「あ・た・ま」、「明るく、楽しく、前向きに」です。齢を重ねれば重ねるほど「前向きに」が大事で、新しい世界を自分で開くくらいの心持ちが大事だと思いませんか?

2012/01/23

朝の散歩 荘厳な1日の始まり

私の朝の日課は、午前5時に起床。それから散歩に出かけ、6時半にきちんと家に戻り、朝食を摂り、支度をして7時10分には家を発って出勤しています。
 散歩のコースは毎日同じです。必ず万歩計とタオルを持参し、途中にある掘り抜き井戸からわき出る地下水で顔を洗い口を濯ぎ、一口の水を味わい、気を改めて再び歩き始めます。タオルはそれ用の必需品です。掘り抜きでの一支度が終わると国道1号線(国1バイパスと地元では言っています)添Sanpoyoake_3いの沼川縁に出て、それからぐるっと田んぼ中の団地を周り、再び沼川縁に戻って、今度は西行し帰路に着きます。朝まだきの中、沼川に遊ぶ鴨に混じって、水の中にじっと餌を漁っているSirasagi白鷺がいます。やがて東の空はたなびきオレンジ色に染まります。散歩も、我が家近くに至って沼川の橋上から東を望めば、一直線になった沼川の水面の上に昇り始めたばかりの太陽が黄金色に輝いています。富士も朝色に染まっていますその美しさを喜び帰宅するのが毎日の日課です。何という贅沢。(同じような贅沢は学生時代にありました。 
 12月、1月の散歩はコース変更です。好きな沼川縁を避けて外灯のある中道を東に向かいます。この頃の朝5、6時といえば、漆黒の闇に包まれたままです。沼川縁の小道を東上すると国1を西に向かう車のヘッドライトで、一瞬、視力を失って道が消えてなくなります。暗い早朝、人々は動き始めます。朝の早い民家からは朝餉の灯りが漏れてきます。散歩途中の「すき家」では朝食を摂っているお客もいます。閑散としてまばらな店内がこの時間らしさです。徐々にして静かな1日が荘厳に始まっていきます。夜明け前のわずかな隙間のような瞬間に私も確かに存在しています。
 朝の8千歩で私の器官はすっかり目覚めます。吐く息は白くても体はなんとなくポカポカとして活動的です。そうして朝のひとときに確かな生の充実を感じて私の1日が始まるのです。
 一昨日、数年ぶりにすでに退職された先輩に会いました。定年退職した後、再就職を経て現在は非常勤嘱託で勤められているとか。先輩はしみじみと仰いました。非常勤の不安定な日課より常勤のリズムを持っている方がどれほど幸せか分からない。
 妙にこの言葉が染みいってきました。私の朝の散歩も、結局は職場をもち、スケジュールされた時間の中に位置づいています。「時間の限り」を持っているのです。散歩に出る時間は必ずしも一定ではありません。10分くらいの遅れは珍しくないのでけれど、不思議と帰着するのは6時30分です。恐ろしいほどの人間の時間感覚です。
 時間の限りがあるということは、自分の生活の中に習慣をもたらせている!ひょっとすると定年後離職した後の最も危険なことは、「時間の限り」が意識の中から消えて、リズムが消えることかもしれません。

 

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